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書道家?書家?どっちで呼べば良いのか問題を、藤井視点で解説

もちろん起業する時にも入念に考えました

書道家と書家の違いは何なんでしょう?
Googleで「書道家 書家 違い」と検索すると最もらしいことばかり書いてあって、しかも根拠も乏しいことしか書かれていないという現状があり、このホームページは投稿でそういう疑問に答えるという趣旨もあるので書いてみますね。

書道家 藤井碧峰作品

さて主題にもありますように、私のように書を職業とするような人間を、【書道家】と呼ぶか【書家】と呼ぶかという問題です。
日本人の心の辞典?広辞苑を調べますと、
書家は出てきますが、書道家は出てきません。
ちなみに書家は、  

①書道にすぐれた人。能書家。②書道を教授し、またはそれを職業とする人。書工。(広辞苑より引用)

Googleで「書道家 意味」と調べると結局書家についての検索結果が出てくるのですが、goo辞書によると

書家・・・1 文字を書くのが巧みな人。能書家。2 書道の専門家。書道家。(デジタル大辞泉より引用)

と出ます。

ということで、雰囲気的には書家が正当な名称であることが分かります。
一方で書道家というのも同義語でもあるようです。
実際に私の師である石飛博光先生や知人の有名で実力派の先生も書家となっており、雑誌墨などでも書家とあります。

ここで胡散臭い(笑)Wikipediaの説明ページを見ましょう。
見る価値も無いほどなのですが、ネタになっていただきましょうかね。 

書道家
古典作品に根ざした書を用い、いわゆる書壇や書流に属すものを書家というのに対し、書道を用いたパフォーマンス等の活動を専らにする者を書道家と呼ぶ。書家は書、すなわち古典に根ざした内面的な美意識を要諦とするのに対して、書道家は書道、すなわち西洋的な芸術の解釈から広範な活動が許されることを以て行うものである。書は、文字性、構造性、言語性が必須要素であり、あくまで文字としての要素を残すことにあるため、誤字や形の間違い、歴史的な仮名遣いなどの誤りに厳しいため、研究が非常に重視され、老いるほどにその練達が磨かれる老成芸術とも呼ばれる。しかし書道においては、西洋芸術の許容度の広い解釈によって、これらの書の必須要素をほぼ無視してよい[2]という解釈がされ、手軽に楽しめる利点がある[3]。古くから独立系、前衛系の書家を中心に大字書、一字書と呼ばれるジャンルなどで現在のパフォーマンスに近いものは行われていたが、近年のインターネットの発達により活動の環境が整えられ、書道家は増加の傾向にある。

どうやら僕はパフォーマンス書道家の模様です(笑
ここまで書道パフォーマンスをせずに事業を成り立たせてこられたので、今後も一切やるつもりがございません。
この文章では書道という意味を書と対峙するもののように書かれている時点で、これを記した人は個人的な視点による思い込みが強い模様です。

この書道関係の世界で嫌いなのが、具体的な根拠の無いことを平気で自分の都合の良いように引用して、世界の常識のように語られることが多いことです。
古典のことがよく分かっていない人の字なんて字を見れば分かるものですが、分かったような顔して語っている人も多いです。
極めて科学的じゃない世界で自分をよく見せるようにしているあたりが、一般人から見て宗教的で不気味に感じる瞬間もあるのではないでしょうか。

手元に文部科学省検定済の「書道」の教科書があります。
こちらは日本を代表するような書の先生方が書かれております。 
著作関係者の名前一覧には「書家 ~」とあり、書道と書は同じ意味であることが分かります。(ここの文脈通じない人いるかも。一人で悩んでください)

こうした大衆相手にする記事を書く際には、中立という立場に立って書くことが大切だと言えますが、読む側の人間としては間違っているだろうと思って疑いながら読むことが大切です。 
ということで、この記事の内容も疑って読んでくださいね。
答えを出すのは皆さん一人一人ですから。

じゃあ何で藤井碧峰は書道家と名乗るか

正式には書家ではある模様(濁らせる)ですし、身の回りの先生方も書家とされてきました。
一方で書道家という名称も我々の生活に馴染んでおり、それは各辞書の内容を精査された時期によって変わってくる模様です。
書道家というのは最近の呼び方であるというのは、そういうことなのでしょう。

書家の方々をネットで調べると、ホームページで【書家/書道家】と頭につけられていることが多いです。
これはGoogle検索への対応と、言葉として含みを持たせているのでしょうか。

私の場合はというと【書家/書道家】とせず【正統派書道家】としたのは、ごちゃごちゃするから、シンプルにしたいからという理由が一番です(笑
【正統派書家/書道家】ってなると字数の都合上、藤井碧峰の名が消える場合もあるので避けました。
【書道家】としておけばGoogleさんは書家で検索された際も、【”書” 道 ”家”】とサーチしてくれるので、とにかく見た目重視です。
あとは、正統派書家(セイトウハショカ)よりは正統派書道家(セイトウハショドウカ)のほうが響きが好きです。
そこまでして正統派を入れる必要があったということですね。
古典に正統性を求めるとはどういうことなのか、これについては作品集や投稿の数々をちゃんとご覧いただければ理解いただけると思うし、出来上がった作品・商品は嘘をつけないものだと信じています。

書道家 藤井碧峰作品集

あと私は平成生まれの書道家ということで、作品のみならず様々な点において現代感覚を大切にしています。
自分の生きている世界では書家、と言うよりは書道家という呼び方のほうが一般的ですし、書家(ショカ)と言って通じない人が多いです。
それが50歳以下でも割とそうなので、書家(ショカ)よりは書道家(ショドウカ)の方が話相手に親切です。
仮面ライダーのショッカーと捉えられてしまっても、自分の気持ちが複雑になりますしね(ショッカー愛好家の方すみません)

何でそうなるかと言うと、書(ショ)という言葉もあまり一般的ではないからです。
「藤井さんは”ショ”で仕事をしている」って他の人に紹介された際に通じないことが何度もありました。「ショ、、、。えーと、書道のことです」みたいな。
「ん?ショ???」←これが結構ありがちです。

私の書いた作品も「書(ショ)」と呼びますが、【一字+小書き文字】ははっきり言って聞き取りにくいシーンが多いです。
なので書道の作品について語る際は、書と言わず”書作品”または”書道の作品”って言った方が親切だとは思っています。
「藤井さんの書の特徴は?」って聞かれた時に「藤井さんの署の特徴は?」に聞こえる人もいるかもしれませんしね。

書道家になるには?収入は?有名な書道家は凄い書道家?

ここからは考察になります。
昔は書という文化がもっと日本に馴染んでいて、その時だったら書(ショ)と言って通じたのかもしれません。
何故ならそれをある程度の割合で知っている人がいたから。
今という時代には「パソコンで字打てるし良いや」という声が聞こえてくるように、手書きが当たり前だった時代よりはどうしても書に対する興味・関心が無くなっているのは仕方ないことです。
だから学校教育にあった教科の名前である「書道」という言葉に近しい「書道家」が、【書道+家】という言葉の成り立ち方からしても”どういう仕事内容か?”を連想されやすいのだと思います。
「書道」は意味も言葉もほとんどの方が何となく知っていますからね。

ここまでの内容を踏まえたうえで、やっぱり私は書道家で行こうと思っています。
”道”という言葉を大切にしたいからというのが大きいですね。
「人には人の歩むべき道がある」と、会社員時代信頼していた先輩が僕に語ってくれました。
”道”と名のつく習い事はどれも奥深く尊いものですし、肩書きにそれが付くのは自らを省みるうえでも大切なのではないか。

今ある格調高い書は、どういう道を辿ってきて成り立ったか。
書の歴史とも紐づけて、自分が辿るべき道は何なのか。
こんなことをいつも考えている人なので、尚更道を付けたいんでしょうね。 
書道家 藤井碧峰作品集

そして今の時代に「書(ショ)」という言葉が通じにくいという点も踏まえて、書道の世界にいれば”書”で通じるのですが、やはり私の仕事は一般の幅広い方に対して行うことですので、意味として伝わりやすい書道家としてありたい。
これが書道の中の世界でバチバチやっているだけなら、広辞苑にも記載されていて正当に使えるであろう”書家”で良かったと思います。
でも今は、書に興味の無かった一般の方を振り向かせるつもりで、先日からの銀行ロビー展も頑張っているわけですからね。

仮に肩書きが辞典に載っていないから正当じゃないと言われても、世の中には辞典に載っていない単語なんて山ほどありますから、それを使わずして今と言う時代を生きられないし、編纂者の気持ちが乗らなければ永遠に認められないということもあり得ます。
それ言うがなら富山県民としては「だら」とか「なーん」「わやく」「くどい」「しょわしない」って言葉とかも広辞苑に載せてほしいがです。(←富山弁で言ってみたかった)

ということで、ここまで語っておいて結局はそれぞれちゃんと考えてご使用くださいというオチでした。
余程の根拠が無い限り決めつけるのは良くないってことで。
みんなやるなら、「インターネット上の書道家or書家と名乗る人のホームページを300件調べて、その結果書家と名乗っている人はこういう活動をしていました。一方で書道家と名乗る人はこうでした」という切り口でやってほしいですね。  

書道家はどうあるべきか

番外編です。

「書道家はどうあるべきか」 

自分で自問自答ですが、自分の書いた字(書)に誠意があることが大切だと思っています。
これは今の時代への投げかけでもありますが、もっとみんな真剣に字の勉強をした方が良いし、もっと真面目に字を書いた方が良いと思います。
もちろん他人事じゃなくて自分自身もそう。
自分の字が完璧じゃないという前提条件のもと、真摯に字と向き合わなきゃいけない。

書家、書道家って軽々しく名乗るべきじゃないし、書のことをよく分かっていない方もお客様として相手にするのだから、もっと自分の為すことに責任を持とうよ、と。
僕自身も完璧じゃないけど、お客様には最高のものを手に入れたと思っていただきたいし、それが書道をされている方から見ても良いものであるように、ずっと正統な書を求めています。
古典に書の正統性を求めて臨書に励むし、古典臨書の意味合いを自分なりに答えを出してやっているし。

ただ古典書いてます、理解しています、って雰囲気の人が多いけど、それが実際に生み出すものにどう影響を与えるか。
割に合わないと言われても時間を掛けて作り上げていくし、それが書の道だと思うから、ひたむきに進むしかない。
これが僕にとって、書道家のあるべき姿です。

【研究】高い筆(主に羊毛筆)と線質(渇筆)との関係  


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【書道家になるには?収入は?有名な書道家は凄い書道家?】
【書道家のリアル起業。起業のメリット、アイデアの考え方などを紹介】

この記事の著者

藤井碧峰

1990年2月富山県砺波市生まれ。平成生まれの若手書道家として、古典臨書に基づく正統派の書が持つ本物の字の良さを追求しながら、現代的で、誰よりも敷居の低い、身近な書道家を目指して活動しております。第七回比田井天来・小琴顕彰佐久全国臨書展 天来賞受賞。令和元年、日本三霊山 立山山頂 雄山神社峰本社に看板奉納。

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