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BLOG 書道・筆文字

4/17【砺波市立庄西中学校創校記念式記念講演『道』】

母校にて講演をしてきました

4/17日(土)のことですが、砺波市立庄西中学校の創校記念式にて記念講演を担当させて頂きました。

【砺波市立庄西中学校創校記念式記念講演『道』】 

今回『道』というテーマで語らせて頂いたのですが、主に好きなこと、やりたいことで仕事をするというテーマのもと、私の歩んできた道や、福野高校時代の同じようにして好きなこと、やりたいことをしている友人たちの進んできた道についてお話させて頂きました。

元々は昨年お話する予定だったのですが、コロナ禍ということで延期になっていたものです。 
今年の創校記念式を行うという決定がなされてから時間は僅かばかりでしたが、先生方の想いを取り入れたうえで、自分が今中学生の子たちに話せることは何かとあれこれと考え、練っていきました。
中学生という時期がどういうものか、またこの時代の子たちはどういう考えなのか、30分お話を聞いてもらえるように、下を向かれないように等、講演として失敗しない方法を自分なりに徹底的に、講演の前夜まで煮詰めていきました。
中学生と歳が近いから聞いてもらえる、というような単純なものではありません。
講演自体は初めてだったものの、こういった任されることに対しては言い訳は要らず、必ず結果を出さなくてはいけません。

しかしながら本当に有難いことで、昭和22年の創校なんで74年経つことになるんですね。
仮に毎年記念講演があったとしても74人しかお話したことがない。
地域の知人の紹介だというラッキーはあったりしましたが、中学校の頃はこんな身になるとは一切考えてもいなかったし、まさか31歳でこんな経験をさせて頂けるとも思ってもいませんでした。
有難いなと思ってお話していたためか全く緊張感はなく、自分なりにはちゃんと伝えられたのではないかと思います。

単純に書道だけしていても今日と言う日は成り立たなかったことだし、かつて何をやっても上手くいかない自分がいて、そこから”何かある人”になろうと思って色んなことに挑戦してきたからこそ物語ができただけのことで、その物語が出来過ぎたものであっても子供たちには伝わらなかったんじゃないかなと思ったりします。
つまりは私には、今何かを持っている人も、何も持っていない人も、挑戦して頑張っていくことで必ずチャンスがやってくるということを伝える、そんな宿命があるのではないか。

そう書くと思い込み過ぎなような気分にもなったりしますが、今回高校時代の友人4人と熱く語っているうちに、そういうことなんだなと感じることができて、少し内容を修正したりしました。
友人たちもそれぞれに自分の中の自分、いわゆるコンプレックスと戦ってきて、それを克服するために挑戦してきて、自分の目の前に来たチャンスに賭けてきた人です。

私はずっと自分が”何も無い小っちゃい存在だな”と思って生きてきて、何かを手にしたいからずっともがいてきた道でしたが、つい最近まで彼らに気軽に連絡を取る気になれませんでした。
それは自分が違う土俵にいる気がしたからです。
自分が思い切った挑戦をしている彼らのことを分かったつもりで対等に話をしようとしても、自分の中に経験が無ければ言葉も軽薄になってしまうと分かっていたからです。
さて昨年コロナが無くて普通に呼ばれていたら、これほど良い内容で講演できなかったかもしれません。

コロナ禍でもちゃんと書道家の仕事一本でやってこれたことが土俵入りを決められたし、それまでは彼らのことを「凄いな」としか言いようがなかったと思うのですが、今はお互いの活動や考え方を話合って認め合える存在になりました。
この会話の空気感というものは挑戦してきて、今もそれを続けている者同士にか分かり得ないところがあり、今回の講演会のために友人たちと沢山お話したことで自分が一番色んなことを学べた気がします。

【砺波市立庄西中学校創校記念式記念講演『道』】  

記念講演の一部内容を公開

せっかく頑張って作った内容なので、ここに所々内容を省略しながら投稿いたします。
こちらは発表用の原稿なので画像もありませんし、所々変なところがあるかもしれませんが、広い心でお読み頂ければ幸いです。  


こういう講演会というのは大抵何かを成し遂げた凄い人が呼ばれるのですが、凄い人の話を聞いても次元が違い過ぎて参考にならないものです。僕はまだ挑戦中のプレーヤーなので、より親しみやすく役立つお話ができると思います。

今の仕事は書道家です。起業してから3年弱ですが、この間に五箇山の三笑楽酒造のお酒の字を書いたり、立山山頂雄山神社に看板奉納、他にも砺波の夜高の行燈の字を書いたりと色々手掛けております。日頃は自分で開発したオリジナル商品や書作品の制作等を手掛け、書道教室も行っております。

そんな僕も大学を卒業してから6年間は会社で勤めていました。起業は中学1年生の頃から考えていました。将来的に好きなことを好きなだけするためにベストの道だと思っていました。しかし、具体的に何をすれば良いのか分からないという悩みをずっと、会社を辞めるまでもっていました。大学では経営学を選びました。

卒業が近づき、やりたいことが見つからず、当時国際ビジネスを学んでいたこともあって伏木海陸運送という貿易の会社に入社しました。「意地でも仕事のできる人になる」「自分が関わる限り、その環境が良くならないなら辞める」と決めて、前向きに精一杯仕事してきました。

25歳の頃、急成長している地元企業の経営者に偶然出会い、これはチャンスだと思い、お願いして後日起業について色々伺いました。「起業したいけどどうやって見つければ良いか分かりません」と聞くと「好きなこと沢山してみると良いよ」と教わりました。それからはゲームを一切やめ、スマホからも完全削除。スキマ時間はビジネスニュースを読み、会社の残業などの無駄な時間を徹底的に減らし、好きなことや読書に沢山のお金と時間を使いました。そして「27歳のうちに会社に残るか、自分で起業するか決めて、28歳で動き始める」と決断しました。そして嫌なことがあって変えられないものを目にした時に独立することを決意しました。どこかで「自分にしかできないもの」を探していたように思います。

書道家になった主な流れをお話します。僕は書道家になるつもりは一切ありませんでした。書道は1994年4歳のころに始め、家の近くの水上書道教室に通い始めました。以来30歳になるまで通っていたのですから26年ほどお世話になったことになります。この間受験等色々とありつつも止める理由がなく淡々と続けていたのですが、先生には度々「書道では食べていけない」と言われていたものです。それは水上先生に限らず、世間的に見た書道界がそういう世界であると言えます。音楽だとか美術も同じでしょう。そんなわけか高校や大学でも書道のことに触れずにきたので、当時の友人たちが「あれ?書道のイメージなんて無かったのに書道家になったの?!」と驚いてくれます。突然変異の動物のような扱いです。

小中学校の書き初め大会以外は特に目立った成績も無く、ただ練習するからまあまあの字を書けていた自分がいましたが、高校に入ってからは何かスイッチが入ったかのように、毎月の課題の本に優秀作品として写真が頻繁に載るようになりました。高校3年生の9月、大学受験のため一時期に休むことを決めました。先生に「休みます」と告げたある土曜日の夕方、帰り道で何故か自然と涙が溢れたのを覚えています。それはつまり、自分にとって書道という存在がかけがえのないものになっていたということです。その頃成績は絶望的でした。高校時代は普通科で160人中155番という安定のポジションを3年生の7月まで保ち、絶対国立大学に行けないと言われ続けたものです。しかしながら、何とかして地元に残らないと先生も高齢だから習えなくなるな、と思うと頑張れました。そうして一気に120番ほど成績を上げ富山大学に無事入れました。

大学に入ってからは、より書道教室という存在を大切にするようになり、熱心に通いました。社会人になった2012年、22歳で師範資格を取りました。それからは“このままじゃダメだ。書き込みが足りない”と感じ、それまでは教室の日しか練習してませんでしたが、家でも沢山書くようになりました。当時仕事が相当酷かったので夜中の12時を回って会社を退社することもありましたが、寝る前に少しでも練習をするようにしていました。仕事で色々あって嫌な想いをしていたので、上達することで前を向きたかったのだと思います。そうして無我夢中で書き込みすることが日常となりました。

2017年6月、大学時代のお友達に誘われInstagramを始めました。風景写真を撮るのが好きなので当初は山の写真ばかりだったのですが、ある時書道の作品を投稿すると反応が多く嬉しかったのを覚えています。どんどん増えていくフォロワー。その後もInstagramにハマり、投稿をしていくうちに素敵な仲間に出会えました。

仕事を辞めた時、やることを決めていませんでした。書道、日本酒、他にも色々ありましたが、旅の中で決めようと思っていました。2018年4月、12日間の車での旅に出ました。主に西日本を周り、各地で気になる事業の施設やInstagramで出会った書道の友人に出会いました。その時に彼らから頂いた言葉は希望に満ちたものでした。とある先生に聞いたことがあります。「僕はみんなから上手い、上手い言われるけど、何が上手いのか分からずにいるんですが、どこが上手いんでしょうか?」と。先生は「碧峰くんは~で、お爺ちゃんお婆ちゃんにならないとできないことをやってて普通じゃないから上手いよ。」と具体的な返答を頂きました。字も実績も素晴らしい先生のお言葉でしたから、物凄く嬉しかったのを覚えています。 

それで勘違いして2カ月後書道家として起業しました。当初技術は中途半端でしたが、書きながら腕を磨いていくことにしました。ホームページをベースにした事業戦略は当初3年ほど掛かると想定していましたが、相当必死にやったので、1年半で事業は一気に急成長しました。ちなみにそれまではロクに収入もなく、大好きな車を手放したり、アルバイトをしたり、人には「あんたの字は売れない」「引き際を考えたらどうだ」と冷たい言葉を浴びせられ続け、辛い想いをしたものです。しかしそのムカつく人達を絶対見返してやると思って頑張りました。
パソコンのソフト等についてはやりながら学びました。僕は頑張ればできるだろうと思っているので次第に慣れるし、業者に任せていることを一人でやってしまいます。そのため仕事のスピードは早く、自分の意思通りにできます。こうして時代に適合したデジタル書道家が生まれました。

こうして人生を賭けて仕事をすることは良き出逢いをもたらします。僕がInstagramに投稿した「誠」という字を見て、「商品に使いたい」と問い合わせを頂いた東京の方が「誠」新選組Tシャツを作りました。そして僕が行った上市町の山でTシャツを着て撮影した画像をInstagramで見た土肥さんと繋がり、何かご縁に感じてすぐにお会いして看板奉納登山の話を頂きました。登山好きな自分も山頂に行くたびに「この看板の字を自分で書きたいな」と思っていたので、運命的な出会いでした。
その後色々問題が生じましたが、立山山頂の雄山神社に奉納させて頂けるという、富山県民として、立山が大好きな者として最高の流れとなりました。それでやり方を考えたのですが、普通にバスに乗って室堂まで行って、少し登山して奉納してもダメだろうと思い、昔の立山信仰に倣ったやり方を考えました。1日目は土肥さんが海抜0メートルから歩き、道中で僕も合流しながら岩峅寺、芦峅寺の雄山神社にも参拝し、立山駅まで行きました。2日目は夜中の12時に立山駅を出発し、ケーブルカー横の材木坂を上がり、距離にして30キロちょっと、標高差にして2,500メートルほどある行程を13時間かけて歩きました。これが本当に言葉にできないほど辛くて、本当に人間の限界を感じました。でも隣に前日に炎天下で5kgの重い看板を背負い、沢山歩いてボロボロになっている土肥さんがいたから弱音は吐けませんでした。諦めなかったから山頂に立ち、奉納を無事成功させました。それからの日々では、周りからの僕の見方も大きく変わったように思います。それは他の誰にでも真似できないことを成し遂げたということが大きいと思います。

この時、奉納登山における成功と失敗について考えたのですが、諦めなければ失敗しないということを知りました。これは多くのことに言えると思います。みんなにも夢や理想があると思うけど、叶えている人は諦めなかった人たちです。僕は小さい頃から何をやっても必死でもがいでも良い成績を残せてきませんでした。それでも関わることに全力で立ち向かってきました。
今、当時の必死な自分に会って話せるなら何と言うのかな、と思うことがあります。「お前そのまま行けよ」そう伝えると思います。そして、この書道家という事業は絶対に失敗できないと思って、まさしく人生を賭けて挑みました。何をやっても上手くいかない奴でも、自分の持てるもの全てを出し切って挑めばできると信じて。その結果、この難しい書道家という仕事を成り立たせることができました。

辛かったことを語ればキリが無いです。でも辛いことがあっても、それをバネにして前に進んできたし、今「あの頃に戻りたい」という想いは一切ありません。良いことも悪いことも経験してきたから今があり、今が人間として一番良い状態だと素直に思います。今は、全国の多くの人が僕の書いた作品を受け取って喜んでくださります。直接お客さんと繋がれるので、会社員時代には得られなかった生の声が聞けます。これは本当に幸せなことです。また、この活動の中で、実際にお会いした人も、会ったことのない人からも熱狂的な応援をして頂いています。普通の人ができないことをしているということは、その人達のぶんも頑張らなければいけないということでもあります。
人生を賭けて生きていると、学生時代、会社員時代にはなかなか出会えなかった素敵な人達に出会えるものです。またこれまで出会ってきた人が「最近頑張ってるね」と連絡をくださったり、出先で偶然再会したりと、コロナ禍であってもできることを探して、精力的に動き回るほど出会いがあり、刺激的で楽しい毎日です。

(・・・高校時代の友人たちの紹介)

僕は一人仕事ですが、好きなこと、やりたいことを仕事にしている彼らがいるおかげで皆で戦っているような気分になれます。本当に良い友人です。人にはそれぞれの道があります。大体にして言えることは、思考は現実化するということです。不幸なことばかり考えている人には、到底僕らのような楽しい社会人生活はやってきません。いつか叶えたい夢や目標がある子も、また今得意なことがある子も、ない子も焦らなくて良い。僕らは30歳くらいになってようやくやりたいこと、好きなことをできるスタート地点に立ちました。学ぶことは大切で、僕も毎日1mmでも前に進めるように何かを勉強しています。社会人になってからも日々の経験を全て栄養にして成長してきました。中学生のみんなはまだまだ充電期間中です。受験や就職活動で思うようにいかなくても人生が終わるわけでありません。自分が小さな存在に思える出来事があったなら、それは成長する良い機会です。それが何かの運命だと感じて常に前向きな姿勢で頑張っていれば、必ず誰かが見てくれていてチャンスが訪れます。自分にチャンスが訪れた時に勝負を避けるのではなく挑戦してみてください。

僕は周りから「難しい」「無理だ」と言われることを目の前にした時に「なら自分がやってやる」と思い、ドキドキ、ワクワクするタイプです。まさしくこの書道家という仕事はそんな気持ちで進めてきました。何かを選択したから上手くいったのではなく、自分でやると決めたからには成功させなくてはいけないのです。人間その気になれば案外何でもできるものだし、もっと自由な感覚で、その時やりたいことに純粋に、思う存分向き合ってみてください。僕も書道家という幅を越えて、これからも色んなことに挑戦してみたいと思います。皆さん、一緒に頑張っていきましょう!

【砺波市立庄西中学校創校記念式記念講演『道』】  


3分の1ほどを削りましたが、このような感じでした。
詳しい内容は他の投稿に記載してあります。
30分の講演では要所のみしかお伝えできず、これは字数にすると8,000字ほどしか無いため仕方ありません。

「私」と言わず「僕」と書いたのもこだわりの点で、大人の講演会だと「私」と書かないと馬鹿にされる風潮もあるかもしれませんが、中学生にお話するのですから、こう語った方が良いだろうと感じた次第です。
そして最後に「皆さん、一緒に頑張っていきましょう!」と告げたのは、同じ時代を生きる者として共に進んでいきましょうという想いを込めました。

私は熱いタイプの人間かもしれませんが、「いけいけ!」「パワー!」というタイプではなく、誰かに寄り添って人間肯定のもとで手を差し伸べられる存在であれたらと、常々思ったりします。
それがどういう形であれ今回お話したみんなの中に残ったなら幸いです。

貴重な経験をさせて頂き誠にありがとうございました。

この記事の著者

藤井碧峰

1990年2月富山県砺波市生まれ。平成生まれの若手書道家として、古典臨書に基づく正統派の書が持つ本物の字の良さを追求しながら、現代的で、誰よりも敷居の低い、身近な書道家を目指して活動しております。第七回比田井天来・小琴顕彰佐久全国臨書展 天来賞受賞。令和元年、日本三霊山 立山山頂 雄山神社峰本社に看板奉納。

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