藤井碧峰
1990年2月富山県砺波市生まれ。平成生まれの若手書道家として、古典臨書に基づく正統派の書が持つ本物の字の良さを追求しながら、現代的で、誰よりも敷居の低い、身近な書道家を目指して活動しております。第七回比田井天来・小琴顕彰佐久全国臨書展 天来賞受賞。令和元年、日本三霊山 立山山頂 雄山神社峰本社に看板奉納。
INFORMATION
書道家、筆文字デザイナーとして仕事をしている私ですが、過去はほとんどそれに関係の無いような物事に熱中してきました。
しかしそれが今の仕事の仕方に役立っているので小さい頃からの話を記していきます。
私の小学校には野球、サッカー、バレーボールのスポーツ少年団がありました。
周りの同級生たちがみんなバレーボールを選んだように私も小3でバレーボールを始めました。
両親は富山県内でⅤリーグの試合があるたびに各会場に連れて行ってくれて、試合を観戦したり、試合後の練習会に参加させてくれたりと熱心でした。
また個人的にも、練習以外にも家でトスの練習をしたり、父のビーチボールの練習に行って他の人に練習の相手をしてもらったりしました。
しかしセンスが悪く、身長も高めでしたがレギュラーにはなかなか入れず悔しい思いをしました。
小6の時に一気に練習の雰囲気が変わりました。
同じ小学校を卒業したOBが練習にコーチとして来てくれるようになったのです。
かつて我がバレーボールクラブは全国大会によく出場するクラブで、強かった時代の一人がそのコーチでした。
周りも「久しぶりに県大会に出るぞ」という雰囲気になり、みんなで燃え上がっていました。
結果的に県大会に出ることができました。
負けはしたものの、みんなで頑張って目標をつかみ取ることの大切さを知りました。
私の最後の試合は小6の1月の試合でした(←その後骨にひび入って3月の試合出れなかった)
控えで出ていた試合で、負けていた時にサーブ権が回ってきてピンチサーバーとして交代しました。
サーブだけはメンバー内でピカイチだったのですが、そのサーブで3-11の状態から7点連続得点を取ったというのが小学校のバレーボールで一番思い出に残るシーンでした。
中学校ではバレーボールを続けても無駄だろうと思い卓球部に入部しました。
バレーボールは団体競技でなかなか球が回ってきませんが卓球なら球を支配することができ、そういうところに惹かれました。
また父は卓球経験者で「卓球は難しいぞ」と言ってて、”難しいなら挑戦しがいがあるな”と思って始めたのもあります。
卓球を始めるのが決まると、時間を見つけては近くの体育センターへ行って親子で練習するような習慣ができました。
翌年には我が家の納屋を建て替えし、2階に卓球練習場を作ってもらったうえ、父自作の卓球ロボットや素振り確認用の大きい鏡を置くなど、環境に恵まれました。
1年生の時は病気で1か月ちょっと休んだりしましたが、父のおかげもあり段々実力を付けました。
とりわけカットマンという、当時20~30人に1人しかいない戦型を教わったこともあって、2年生になった頃には小学校からやっている子たちと戦えるようになりました。
カットマンは別の名を守備主戦型と言うのですが、当時活躍していた松下浩二選手のプレーは攻撃を多用したアクロバティックなプレーで物凄く魅力的に見えました。
次第に私は攻撃を多用するようになり気づくのです。
「守り続けていては勝てない」
図書室が好きで静かで大人しかった自分が変わるキッカケがこの気づきでした。
相手のミスを誘うことも技術ですが、やはり自ら点を取りに行く姿勢が大切なのです。
男子卓球部の顧問は女の先生でした。
当時ホンダのCR-Xデルソルに乗っていたイカした方でしたが、本当に情に溢れる人でした。
この人と出会わなければ今の自分は無いなといつも思います。
1年生の時の2,3年生の先輩たちは失礼ながらそれほど真面目にやっていませんでした。
先輩たちが引退した時に「一生懸命やって県選行こまいけ!」と士気が高まり、そこから濃い1年間が始まりました。
先生は本当に情熱的な人で、話すたびに部員みんなの心を惹きつけ盛り上がらせました。
部員それぞれが熱心に練習に励み、日に日に実力を付けていきました。
頑張っていても小学校からの経験者に勝つのは容易ではありません。
そんな彼らに勝てるようになったのは2年生の後半からでした。
自分のバック面の粒高ラバーを多用した変化形プレーの質が高まり、それに伴い攻撃をして得点するというプレースタイルが確立されてきたためです。
そうして私は守りに入る人間から攻撃的な人間になっていきました。
市内の強者には毎回フルセットになってしまうものの勝てるようになりました。
市民体育大会では3位と悔しい思いをしましたが、県選出場へのカギを握る地区選手権の団体戦ではエースとして出場し、大切なところで決めて念願の県選出場を決めました。
未だに他の中学校出身者から当時の地区選の話をされたりしますが、他の人にとっても自分にとっても思い出に残る名場面が沢山ありました。
やっとの思いで出場した県選では全く話にならずボロボロで泣くしかありませんでした。
最後、試合が終わってみんなで集まって、顧問と部員と輪で囲って涙ながらに話しした時のことを今も忘れません。
一人一人が大切な存在であったことは間違いありませんでした。
スポーツで小中学校時代を振り返るととにかく運が良かったと思います。
自分たちで頑張ろうと思ってもなかなか出来ないもので、周りも含めて一丸となって「ここで変わろう」と頑張って目標をつかみ取る。
そんな素晴らしいタイミングにたまたま巡り合えました。
本当に運の良い男だと思います。
でも運があっても自分で動かなければ何も変わらないのも事実です。
高校時代では自分で動かす厳しさを知ることになりました。
→ブログ「卓球で部活動に励んだ高校時代」
→ブログ「【卓球】初心者への指導方法・コツ」
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