藤井碧峰
1990年2月富山県砺波市生まれ。平成生まれの若手書道家として、古典臨書に基づく正統派の書が持つ本物の字の良さを追求しながら、現代的で、誰よりも敷居の低い、身近な書道家を目指して活動しております。第七回比田井天来・小琴顕彰佐久全国臨書展 天来賞受賞。令和元年、日本三霊山 立山山頂 雄山神社峰本社に看板奉納。
INFORMATION
2023年6月20日で書道家藤井碧峰は独立起業して5周年を迎えます。
当時上手くいくという確信も無く、とにかく自分が持てるものを全て注ぎ込むことしかできませんでした。
それでも沢山の応援してくださった人がいて、おかげで今ここに書道家としての活動を続けられている僕がいます。
本当にありがとうございました。
起業時より私が経験し得られた知見を書道界にフィードバックしていくことを宣言しておりました。
それについては日々のブログ記事にも掲載してありますので、是非ご覧ください。
この記事では、この書道家起業・経営の中で実現し、皆さんに証明したかったことを書き綴っていきます。
何故純粋な気持ちで応援してくださる人がいたのか、何故この挑戦、活動をすることに価値があったのか、その答えがここにあります。
目次
それは言い過ぎじゃない?と言われたとしても、実際に競書誌書作に出して写真版に載って知ってくださっていた人や、地元競書誌関係で少し知ってくださっている人がいただけでした。
会社員時代までにも沢山の人と関わってきていますが、お客さんになっていただくことは1%にも及ばないことでした。
でもそこに甘えが無かったから強くなるしかなかったんです。
世間に全然認知されていない。
知られていなければ存在しないのと同じです。
起業時に応援してくださったのはInstagramで仲良くしてくださっていた数人の書友くらいで、4歳から30歳頃まで習っていた先生も反対していて、今思っても良くやったなと思うくらいです。
難しいからこそ、ハンディキャップがあったからやる価値がありました。
これまた今となっては信じてもらえないかもしれませんが、しばらく漢字と仮名を学んできて、創作はほとんどしていない状態での見切り発車でした。
22歳の時に師範資格を取っていますが、そこからも臨書、臨書の日々で、古典ありきの自分でした。
書道家は主に創作が強い、特に有名な人ほど創作力が強く個性が表れる気がしますが、自分は古典主体なので個性もほぼ無い一方で、癖の少ないことが強みでした。
当たり前の字(基礎)を当たり前に書くことは、意外と難しいことですが、そこが案外できていないことが多い気がする書道界です。
そこもずっと大切にしてきました。
書道家を名乗る人の中にも個性ではなくただの癖字の人は多いです。
また創作が素晴らしくても、それが一般の方に受け入れられるとは信じ難いものがありました。
ここに普通の字を書いている、だけど正統派の書を愛する自分の生きる場所があると感じました。
この世界にいて、「臨書は意味が無い」「臨書ばかりしていると面白くない字になる」という声を聞きますが、それを自分の手で違うことを実証したかったのもあります。
特にテレビには出ないということ。
実際にはそんな全国的な放送はちょっと問い合わせがあっただけですが、そっち方面には目立たないように気を付けて活動してきました。
その理由はテレビの力を借りると凄い人に見えてしまうから。
それが書道家の事業として軌道に乗せるために有効だったとしても、いずれ実力と乖離した扱われ方をされるのが見えていたため徹底して避けました。
作品展や政治的な活動で自分を売りこみまくって成り立たせるのではなく、本当に良い字を書けるようになり、純粋に作品を愛してもらえる書道家になることを目指しました。
それと私のように自己肯定感が少ない人は、顔を出すのが苦手です。
何かに挑戦したい人がいても、「目立つの嫌だな。でも表に出ないと売れないんだろうな・・・」と思っている人にも、僕のやり方というのは”表に出なくても良いんだ”という、ちょっとしたハードルを下げることにもなると思います。
身の回りの書友が、世間で目立っている書道家に感じている違和感を解消するためには、このようなスタイルが必要不可欠でした。
露出は極めて少ないけど、それゆえにイメージコントロールと事業規模のコントロールは上手くいっています。
派手さが故に書道家として略歴に記せることは少ないです。
でも自分にとって特別な比田井天来・小琴検証佐久全国臨書展の天来賞と、立山山頂雄山神社峰本社への看板奉納登山だけは、書道家藤井碧峰の方向性を示すものとして、ずっと大切にしていきたいと感じています。
この世界も東京で勝負とか色々言われることが多いですが、それなら逆を行きます。捻くれています(笑)
学生時代もずっと地元にいましたが、それを強みに変えること。
そしてインターネット社会ではデバイスを活用すれば日本全国、世界へ繋がるのだから、それを前提に歩みを進めました。
フェーズ1でネットでの需要拡大を先に行い、フェーズ2で地元地域を視野に入れての活動を展開してきました。
フェーズ2はコロナ禍に入ったタイミングだったこともあり、県外に出られないことと相まって功を奏しました。
地域社会の現状を見ていても未だにインターネットを大いに活用できている人はごくわずか。
書道界のみならず地域社会への様々な提案を行っていきたいと思っております。
元々は書道教室をしない前提で起業しました。
理由としては【書道家は、自分の商材である書が魅力的だから商売が成り立つ】という形が僕なりに正しいと考えたからです。
更にハードルを上げて【日常生活に絶対的に必要ではない作品をメインにして、事業を成り立たせる】という風にもしました。
このように色々なことを事前に定義しています。
定義しないと目的地点が曖昧になってしまい、最悪の場合見失ってしまいます。
書道家と呼ぶか書家と呼ぶかについてもちゃんと定義しました。(詳しくはこちらの記事へ)
書作品における様々な問題に関しては「書道家、作家として直面する問題(売れない、クレーム対応、著作権侵害等)と解決方法」という記事でも書きましたが、本当に簡単に買っていただけるものではないんですよね。
でもそれを実現させるところに経営の力があるべきだし、経営学好きとしては気合いが入りました。
実際に作品のオーダーをそれなりに頂けるようになっている今、そんな現状を書道用品店やメーカーさんとお話していても、凄く喜んでいただけるし盛り上がります。
とにかく作品が売買される状況を作っていかなければ、業界は盛り上がらないと思います。
憧れの恩師との出逢いから刺激を受け、1年後書道教室を始めることにはなりましたが、定員を40名に絞ることで、これだけでは生活が成り立たないようにし、作品制作をメインとした書道家となることができました。
でもそれで不安定になっていてもどうしようもなくて、確実に生活が成り立つように、堅実な経営戦略のもと事業を育ててきて今も生き残っています。
その点ではコロナ禍は、事業のビジネスモデルの強さを証明する機会になりました。
書道家とはシンプルに俯瞰して見ると、絶対的に必要では無い物を取り扱うビジネスをすることで、それを成立させることです。
必要不可欠なものを商材とするビジネスよりも難易度が高いため、より社会にある沢山の満たされていない需要を見抜き、練り込まれた経営戦略を用いる必要性がありました。
これを実現することによって美術業界や、斜陽産業にも希望をもたらすことができると感じていました。
起業前より一番問題に感じていたことは、時代感覚に応じたやり方で書がユーザーに届いていないということでした。
他の業界においても同じことが言える場合がありますが、消費者便益を第一にした事業が案外少ないです。
それは時代が進むほど変わっていくし、行き過ぎても届かないこともある気がしています。
その点は普通の会社員生活を経験して、普通の生活をしている身として、一般論を頭の中で構築し、自分なりに求めやすい形にしています。
会社員時代から仲良くしていた作業員に「藤井、こんなところにおらんと書道家でもなったほうが良いんじゃないか?」と言われることがありましたが、いつも「やり方次第ではやっていけると思います」と答えていました。
それは難しいことは当然理解しながらも、中学校の頃から起業を志していたものとして、経営の力を信じていたからです。
書道家の世界では1万人に1人しか成功しないならその一人になればいい。
つまりは9999人の失敗する方法を導き出し、それと違う方法をやっていくことが生き残り戦略でした。
そして【3年で軌道に乗るように】というのは”一番遅くて”という条件でした。
事業が成り立つこと自体難しいのですから、早ければ早いほどインパクトは強いです。
実際には1年半で軌道に乗せることに達成しました。
先述の通り、何をもってして書道家として成立しているかも事前に定義しました。
これに関してはなりたい書道家像に合わせて、目指すところが違えば人それぞれで良いと思いますが、目標があってようやく手段が決まるものなので、ただ一生懸命に書道だけやっていても駄目だという点でも条件設定が重要です。
自分としては、それをやるからには収入が少なくても駄目で、前職の給料、同い年の平均年収等を越えるのも当然のこと。
社会に認められ、書道界から認められるには普通以下ではいけないと思っています。
こういった設定も手段を組み上げていくうえで大切です。
学生時代、会社員時代を経験し、散々同調圧力を味わってきた中で、正しいはずのことを貫けないということを繰り返してきました。
上の人に逆らってはいけないとかいう割には、どんどん環境が悪化していって人が減っていく組織も多いですよね。
何故おかしい状況で正しいことを言ってはいけないのかという、日本特有の問題にぶち当たりました。
そんな一般社会ではしてはいけないことの数々も、ビジネスの世界では案外正しいことだったりもして、当事業では物事の原理原則を見つめていくうえでその突破口を見つけてきました。
書道の世界では変わったことをしているとすぐ批判の対象になります。
しかし、原理原則に基づき、人として何が正しいかを追い続けていれば、そんな批判もした側が馬鹿を見るだけになります。
この手の起業は孤軍奮闘になりがちだからこそ、広い世界で極力理解者を増やし、敵を作ったとしても沢山仲間を作っておくことが大切だと言えます。
InstagramやFacebookも使っていますが、こちらは商売的な使い方ではなく、日々自分の考え方を綴り、理解者を、仲間と繋がっていくためのツールとしています。
藤井碧峰独特の暗ーい、真面目な文章の数々が流れてきますので、誰にでもお勧めしません(笑
多くの人に共感を持っていただけるような条件に偶然なっていたかもしれません。
よく人が上手くいったのを見て「あいつの家裕福な家だから」とか「万が一職失っても、親戚の会社に行ける身だから」とか、とにかく素直に挑戦したことを認めてくれないのがこの世の中。
実際にそんな条件が結果に作用していたとしても、それを捻くれた目線で見た人が満たされるわけでもないです。
僕のように実家暮らしでの起業だと甘えがあるように思われますが、家の方針もあり収入が無くても生活費は確実に5万円支払っていました。
ガソリン代やら携帯電話代やらを自分で払うのも当然です。
それでも甘いのかもしれませんが、自分としてはそのおかげでどんどん後が無くなっていく恐怖も味わったし、その中で資金が尽きて、苦しいアルバイト生活も経験し、ここに居ちゃだめだと心の底から感じて最後の踏ん張りができました。
正直死んでも仕方ないなと思えるほど追い込まれました。
でも経営者とは本当にもう事業が終わりだと思ってしまった時に試されるもの。
何事でも、挑戦する方は恵まれない環境で戦っていても、できない理由を考えるのではなく、実現するために全力で挑んでほしいです。
私は学生時代に書道部や書道関係の学校に行っていないので、書道のことに関して言えばあまり知らない方だったと思います。
マニアックで凄い人が周りにいるから尚更そう感じるのかもしれません。
それ故に書道のことだけで勝負できる気がしていませんでした。
逆に言えば、起業時に書道の世界で自分には際立ったものが無いと感じていたため、全てのリソース(資源)を投じるしかなかったとも言います。
しかしこれを行うことで、人生において無駄な時間など無かったのだと、これまで結果を出せずにいた自分のためにも実証したかったのです。
それは会社員時代世話になり、自分が仕事のできる男になるように鍛えてくださった、若くして亡くなった恩師への、またかけがえない日々を過ごし育ててくださった同僚への、せめてもの償いでした。
鍛えていただいた能力で、この難しい戦いの中で意味ある勝利をつかみ取りたかったのです。
会社員時代も、入社してすぐから富山県の物流の最先端でスケールの大きな仕事をさせていただきましたが、自分の名前が残るような仕事では無かったです。
結局組織の中で活躍したとしても、自分ありきで成し遂げられる、社内のみならず地域社会に認められる仕事なんてなかなかできやしないです。
しかし、父は若い時に大きな仕事をやってのけているので、それには負けたくありませんでした。
全社員の中で自分しかできない仕事をしていて、自分のミスで富山県内外の物流を止めてしまうほどの恐ろしい仕事をしていたけど、それでも自分じゃなくても良いのでは?と感じるようにもなりました。
そして組織の中では会社に時間が奪われているという危機感がありました。
特に25歳の時にそんな危機感を感じ、27歳で会社員か独立起業かを判断し、28歳から動き出すことを決断しました。
そうして28歳で独立し、その1年後に立山山頂雄山神社峰本社への看板奉納登山、三笑楽酒造ラベル揮毫を成し遂げました。
これに関しては、明らかにこの独立起業という選択をしていなければ達成できなかったことです。
目標を自分の身に近づけること。
つまりは運を引き寄せる行動であったと言えます。
これが自分にとっての一番の欲だったように思います。
バレーボール、卓球、スキー、勉強等、何を一生懸命やっても結果を出せなかった人生。
それでも目の前の物事に対して、諦めずに真剣に向き合って努力し続ければ、道は開けると信じていました。
そしてそれを最後の挑戦のつもりで、ここで駄目だったら何をしても駄目だという気持ちで、足を踏み入れたのが書道家への道でした。
ただ夢を忘れてしまった同世代のヒーローになりたかったのかもしれません。
自分はいつも窓際族で光の射すことの無い人生でした。
いつか栄光がやってくるからと信じて頑張ってきたけど、起業してから動きが変わりました。
その一つ目は佐久全国臨書展での天来賞受賞でした。
古典臨書だけを見つめ、その道を信じ続けた誰にも知られていない自分が、憧れの石飛博光先生に認めていただけたこと。
本当に嘘のような出来事でした。
二つ目は立山山頂雄山神社峰本社への看板奉納登山の成功。
小さい頃から立山に特別な想いを馳せていた人間として、富山県民として雄山神社峰本社に自分が揮毫した看板を自分の足で奉納できたことは大きな誇りです。
あの頃から周りからの、僕の見方が変わっていきました。
三つ目は三笑楽酒造を始め、この短い期間に多くの案件を任せていただけたこと。
特に日本酒ラベルは書道家憧れの仕事で滅多に変更されないこともあり、起業前から日本酒に関わる仕事をしたかった自分にとっては念願そのものでした。
新しいラベルでの販売開始後やお店の看板等の完成後に、実際に見ることが楽しみな日々です。
4つ目は1年半で軌道に乗ったこと。
3年計画でもギリギリな行程だと感じていましたが、わずか半分で到達し、応援してくれていた関連企業と大いに喜んだあの日の感動を忘れません。
この短い間にも奇跡的で運命的な出逢いが沢山あり、その一つ一つが結果に結びついていきました。
5つ目に31歳にて母校庄西中学校での記念講演、32歳にて母校富山大学での講義をしたこと。
この仕事は価値ある歩みをしていれば、いずれそういった場に呼ばれることは想像できましたが、これほど早くに達成できるとは思っていませんでした。
どちらもその場における至上最高の内容にすべく、己の全てを注ぎ込んで挑みました。
これまで散々批判されたい放題でやってきました。
「あんたの字じゃ売れない」
「そんなの無理だ」
「何で上手くいくわけもないのにやる?」
「いつになったら手を引くんだ?」
「そんなことしていても意味が無い」
挙げたらキリがない批判のオンパレード。
その言っている人達が被害受けているわけでもないのに言われるんですよ。
それに耐えてきただけでも立派なことだと思います。(本当に)
でも良いんです。
そんな批判してきた人たちが間違っていたと、自分の手で証明してやりゃいい。
本気で挑むとはそういうことです。
しかし、本気で挑むとは自分の非力さを知ることでもあります。
道中で夢見る馬鹿と言われても良い。
その人たちが言ったことが間違っていたと意地でも教えてあげなければ、僕の気が晴れることはありません。
そんな腹黒い気持ちをも持ち合わせていなければ大きなことは成し遂げられません。
組織にいると自由に制限をかける間違った考えや、既存の暗黙のルールを突き付けられてしまうこともあります。
年齢を重ねないと収入が増えないとか昇進できないという問題も、自分の手で変えられるのが起業の醍醐味でもあります。
大きなことに立ち向かう時は沢山傷ついて、何度も苦しい想いをして、もう本当に事業も人生も終わったように感じることでしょう。
壁が大きければ大きいほど、綺麗に物事は進みません。
それでも諦めずに希望を失わずに本気で頑張れる自分がいたなら、きっと知らない誰かが手を差し伸べてくれるはずです。
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