藤井碧峰
1990年2月富山県砺波市生まれ。平成生まれの若手書道家として、古典臨書に基づく正統派の書が持つ本物の字の良さを追求しながら、現代的で、誰よりも敷居の低い、身近な書道家を目指して活動しております。第七回比田井天来・小琴顕彰佐久全国臨書展 天来賞受賞。令和元年、日本三霊山 立山山頂 雄山神社峰本社に看板奉納。
INFORMATION
事前告知のような形になりますが、この度立山山頂の雄山神社の看板を揮毫させて頂きました。
こちらの看板は登山をされた方ならご存知かもしれませんが、山頂にて登頂記念の記念撮影をする際に使用されるものです。
富山県民の誇りである立山、そして古く1300年以上前から続く立山信仰のこの地に、藤井碧峰が揮毫した書を奉納させて頂くことを本当に誇りに思います。
この看板の話を企画されたのは、5月にInstagramで繋がった土肥さんで、この方との出会いも偶然でありながら必然的だったのかもしれません。
5月5日に上市町の山を登山した際に、山頂にて新選組グッズの「誠」Tシャツを撮影していました。
この写真をInstagramに投稿したのがキッカケでコメントを頂いたのですが、お近くに住んでいらっしゃったことと、新選組グッズに興味を持っていただきご注文を頂いたのです。
その頃、私は北日本新聞さんより出版されている「戦国越中を行く」という本を読み、越中の戦国時代について書いた近代詩文書作品を書こうと研究していました。
戦国時代、上市町には弓庄城という城があり、その城主が土肥政繁でした。
佐々成政と戦った武将なのではありますが、”土肥”という名前を意識していた頃にInstagramで土肥さんという方にコメントを頂いたのと、下の名前も含めて何かとご縁を感じ、商品と一緒に手紙をお送りしたのです。
1週間後に私は上市町の中山に登山したのですが、その時にお呼びしたところ自転車で番場島まで駈けつけてきてくださり、出会ってから物凄いスピードでお会いすることになったのです。
明かに良い人なのは直感で分かっていましたし、書道家として出来ることとして土肥さんには色々とご提案を頂きました。
それが、
・立山&他の山への看板奉納
・「剱」筆文字Tシャツ
でした。
それからは頻繁に連絡を取り、看板奉納登山の実現へと進めて参りました。
どこの山にしようか、龍王岳や大汝山も良いなと計画していました。
しかしすぐ壁にぶつかりました。
誰かの所有物でもない山に看板を置くことは不法投棄になるのです。
土肥さんに役所等に入念に聞いて頂いたのですが、どうしようもないようでした。
つまりは、我々が山頂で手にしているあの看板は不法投棄されたものなのです。
好意によって持ち込まれたものもあれば、お遊びで持って行っておいて行かれたものもあると思います。
特に剱岳の山頂には看板も何種類もあるそうですし、オモチャの剣も置いてあるようです。
中部山岳国立公園の方も、もし名前でも書いてあれば撤去命令を出す、最悪の場合罰則を科すとのことで、一旦奉納を諦めかけました。
劔岳点の記にありますように、剱岳は古くより立山信仰の場所として、登ってはいけない山として存在していた、神聖な山でもあります。
そんな山の頂が、このような惨状ですので、何か変われば良いなという想いも抱きました。
諦めの悪い私は何とかしてこの奉納登山を実現しようと知恵を絞っていました。
そこで名案、誰かの所有物にすれば良いのです。
すぐに大汝山を思い浮かべました。
大汝山の看板は二つに割れてボロボロになっていました。
大汝山(3015m)は富山県最高峰の山で、近くに大汝山荘があります。
ここに依頼すれば実現する!と土肥さんにお伝えしたところ、その流れでいくことになりました。
後日土肥さんが立山に行った際に大汝山にも登られたのですが、その時既に何者かによってペンで手書きされた看板になっていたようです。
しかし、雄山(3003m)山頂の雄山神社の宮司さんに看板の件についてお尋ねしたところ、
「いつ持ってこられますか?」
とまさかの返答があり、奉納登山が実現に進みました。
先日よりずっとどのように書こうかと悩みに悩みました。
他の書道家の先生方の奉納された書も学び、また看板の字も学びましたが、なかなか答えが出ず。
また無礼の無いように、登山された方の記念とは言え神社に奉納するわけですからね。
悩み絶えず時が流れ、先週末ご挨拶で岩峅寺、芦峅寺の雄山神社2社に看板奉納登山の件についてご挨拶に伺いました。
そこで立山信仰に関する様々なお話を聞き、気の持ちようも少し変わりました。
また自宅に帰る際に、地元の師匠が書いた薬勝寺の石碑の字を見て、どう書くのか決めました。
夜にそのまま揮毫、一気に書き上げました。
自分でも満足できる良い揮毫となりました。
この看板揮毫が藤井碧峰という書道家に回ってきたからには、自分である必要性があるような字を書かなければなりません。
そういう意味では、自分の一番の行書体を自分の書き方で、自分の思う立山像を頭に描きながら書かせて頂きました。
今回は8/10(1日目)朝に土肥さんが常願寺川河口を出発し、途中岩峅寺、芦峅寺の参拝(藤井合流)を経て立山駅を目指します。
8/11(2日目)は、私も一緒に0時に立山駅を出発し、材木坂を登り、美女平からはアルペンルートを歩いて室堂平を目指し、そこからさらに立山、雄山山頂の雄山神社を目指します。
私も運動はしておりますが、全く想像のつかない挑戦で体力に自信というものはありません。
ただそこにあるのは、この奉納登山にかける想いの強さだけです。
小さい頃からずっと富山を離れることなく育ってきました。
スキーが好きで、山が大好きでした。
しかし、家庭環境的に登山は身近ではなく、危険なイメージが先に立ち禁止されていたように感じます。
そのため社会人になるまでに経験したのは小学6年の時の立山登山のみで、それ以外は室堂までの観光で終わっていました。
中学生になっても、高校生になっても、立山を見るたびに憧れていました。
社会人になってからも憧れは心の底に閉まっていました。
会社に勤めて2年目、本当に生きているのが嫌になるほど辛い時期を経験しました。
週末だけが嫌なことを忘れられる時間で、会社のことを忘れるために精一杯使うようになり、 毎週末おわらサーキットで走ったり、スキーへ行ったり、他にも沢山好きなことをしました。
その流れの中で、【もう何も後悔しないように、やりたい時にやりたいことをする】という気持ちが自分の中で根付きました。
ある意味では、”どうせ死んでしまうなら”という投げやりの気持ちだったかもしれません。
2015年9月立山の存在が頭に浮かびました。
シルバーウィークも長い中で何かしたいと思い、登山好きでもないけど登ってくれそうな車仲間に立山登山の提案をしたところ、意外にもOKを頂きました。
お互いに道具も無かった、、、登山4日前の決断でした。
あの時、その友人が断っていたら今はありません。
一緒に見た紅葉した立山。
体力も無くて体は限界状態で何とか下山。
靴はソールが剥がれ崩壊したのも懐かしい思い出です。
立山に訪れることで登山の良さ、楽しさを知り、自分という人間をも知りました。
この地は、私にとってはかけがえのない場所です。
それから登山にハマりました。
ますます、時間を大切にするようになりました。
自己投資に明け暮れました。
この中で書道にも打ち込めるようになりました。
時に、立山博物館に行ったり立山カルデラ砂防博物館に行ったり。
景色の良い場所から立山連峰を眺めたり、本で立山を学んだり。
こうして立山を少しでも知ることが自分の楽しみでもあります。
これもまた、今回の看板揮毫に活かされました。
いつも書道家として大切にしているのは、上っ面だけ見て字を書かないこと。
「南無阿弥陀仏」を書くにしてもその意味を知っているか。
浄土真宗とは、いや日本の仏教とは、いやいや仏教のはじまりとは。
ちゃんと知識を持ったうえで、意味を理解した上で書くことが、自分の仕事だと感じています。
今回の立山雄山神社の看板揮毫が私にご縁があったのも、必然的なのかもしれません。
知っているからこそ表現できる世界があります。
知っているからこそ表現したい世界があります。
立山というのは自分にとって特別な場所。
書道家として立山で何かできないか、退職して間もなかった去年からずっと考えていたことです。
そういう意味では本当に出会いに感謝です。
では何故自分の足で歩いて奉納するのか。
それは土肥さんも想いがあって、自分にも想いがあります。
若い人達には見ていてもらいたいなと思います。
こうして28歳で、周りから良いと言われる会社辞めて、難しい書道家としての道を歩む自分が何を成していくのか。
若いうちにしか出来ないことを、自分の身で訴えていきたいと思います。
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