書道と近代詩文書作品の面白さ
近代詩文書の良さ
このブログには私の書いた漢字作品ばかり出ているのですが、【近代詩文書】というものも書きます。
こちらは別名で”漢字かな交じり書””調和体”と呼ばれたりなんかします。
要は、漢字や仮名が交ざった現代の言葉を書で表せるという作品ですね。
昭和の初期ごろまでは書は漢字、仮名で無ければならないというような風潮があったそうですが、それでは専門家しか読むことができない。
”誰でも読むことができるような書作品を作ろう”ということで金子鴎亭先生によって発案されたのが近代詩文書です(ちょっと説明間違えてたらすみません)
漢字は表現として硬いものです。
仮名は軟らかいものです。
これを調和させるにはどちらかをどちらかに歩み寄らせなければいけません。
漢字を仮名に合わせる、仮名を感じに合わせる。
非常に難しいなと思うのですが、自分たちが身近に感じている言葉や、お気に入りの言葉を自分のリズム感で表現できる、その詩句にあった雰囲気で表現できるという点で優れた書です。
色んなパターンを書いてみる
最初から自分で書こうとすると大変なことになるので、定期的に他の先生方の書かれた近代詩文書の作品を参考にして書いて勉強しております。
『蝶は超ゆ、この現より、うつら舞ふ髭長の影。昼闌けぬ。花びらの外、歎かじな、雲の驕溢を』北原白秋
こちらは金子卓義先生の書かれた北原白秋の詩を真似しました。
真似するというと「臨書」といった響きになるのですが、大抵初心者の方は姿形を真似するというところから始まると思います。
しかし、その状態で筆勢を表すことは難しいです。
こちらも臨書と同じく、書かれた当時の筆遣い、スピード感、リズム感を意識しながら書くと多くのことを学ぶことができます。
このリズム感というのが大切で、その詩句が書かれた背景や内容に基づいて表現すると、その作品の深みが一層深くなります。
近代詩文書の発案者、金子鴎亭先生は、
「書というものはリズム、リズムのあるのは書。リズムの無いのは字なんだ」
との言葉を遺されています。
作品を書かれた先生方がその詩句の内容をどのように受け止められ、書道作品としてどう表現されたかを学ぼうとしたときに、実際にその字を自分の手で再現してみるのは非常に良い勉強になります。
『五月がきた郊外を夕がた歩きゃ家々の表で藁を燃やすにほひ』木下杢太郎
こちらは青木香流先生の作品を真似しました。
良い書というのは、こうして真似して書いていると古典を感じます。
比田井天来先生なり金子鴎亭先生なり、古典に立脚した書を大切にされているので、俗っぽくない書だと感じます。
「これなら普通に書けそうだ!」と思う方もいたりするかもしれませんが、やはり書道は古典の臨書学習をしているか否かで結構な違いを感じます。
『月からひらり柿の葉』種田山頭火句
普通に並べて書くのもありですが、こうやって文章の配置を変えることも他の方の作品から学ぶことができます。
これらは半紙で書いているのですが、半紙の中でも余白の使い方で世界が広く見えるので書道の世界は奥深いなと感じます。
またこれには仮名で使われる”ちらし書き”という技術が役立ちます。
『連発の花火に狭き海の空』とめ子句
花火の弾ける感じ、そういうものを出すために筆勢を大切にしたい一作ですが、こういった筆勢を学ぶにはやはり行書の臨書が相当活きてきます。
私は2~3年前だったら、臨書不足でこういう書は書けなかったと思います。
『柳絮とび河原明るく穂高立つ』澤田緑生の句
こちらは羊毛筆と山馬筆の2本持ちで書いた1枚。
羊毛筆は非常に軟らかいものですが、山馬筆ばバサバサの硬い筆ですので、荒れた感じを表現することができます。
こういう『穂高』とか山の名前が入った書が結構好きなので、今後の作品展に近代詩文書を出品する際にはそういった詩句を探すか自分で作って出品したいなと思ってます。
多くを学ぶこと
やはり一つの偏った流儀を学ぶよりは、多くの書を学び、それぞれの良さを学んだ上で、自分の書というものを作っていくという過程が私にとって理想です。
書道家を名乗る限りは自分の書というものを確立していかなければいけません。
先日も記しましたが、書道家を名乗ることは自分の字に責任を持つこと。
しかし一つのやり方に固執してはいけないので、常に学び、変化し続けなくてはいけない。
こう書くと辛い道のように見えますが、書を学ぶことは楽しいことです。
様々な表現方法を身に付け、色んな言葉を自在に表現できるようになりたいなと思います。