藤井碧峰
1990年2月富山県砺波市生まれ。平成生まれの若手書道家として、古典臨書に基づく正統派の書が持つ本物の字の良さを追求しながら、現代的で、誰よりも敷居の低い、身近な書道家を目指して活動しております。第七回比田井天来・小琴顕彰佐久全国臨書展 天来賞受賞。令和元年、日本三霊山 立山山頂 雄山神社峰本社に看板奉納。
INFORMATION
この度運よく手に入れることができた中田大雪先生の色紙作品を、今日届いてすぐに自分の部屋に飾りました。
中田大雪先生は私が師範の資格を取った富山県書学会を始められた方で、金子鷗亭先生のお弟子さんであり、私の地元の師匠の師匠であります。
こういうまろやかな線は引けそうで引けないものです。
見ていて心が落ち着きます。
またその雰囲気からはどことなく自分にも流れるものを感じます。
私の師匠がいつも私に指摘していることは、中田大雪先生が実際に作品を通して感じざるを得ません。
最近の書道界では激しい作品や黒い作品が多いわけですが、私が思うに人に求められている作品とは結構静かでさり気ないものだと思います。
今回手に入れた中田大雪先生の色紙のような、こういう書が一番奥深く、味わいのあるものと信じています。
だからこそ部屋に飾って何度も眺めて自分の作品作りに生かしたいと思っています。
私は物事を極めたい、一生懸命頑張りたいという時に歴史を学ぶ癖があります。
それは愛車であったセリカ、インプレッサで走っていた時もそうでした。
卓球でも歴史を学びましたし、立山についても同じです。
それが何に繋がるかは学んでいる最中には分かりませんが、意外な瞬間に役立つものです。
書道においては歴史、特に古典というものは切り離せない存在です。
書道家を名乗る者が古典に学んでいないのなら、それは書道ではありません。
私は「書家」ではなく「書道家」という言葉を好んで使いますが、書道という道の中での自分でありたいと思っています。
それは古典臨書に正当な書を求めているということでもあります。
最近の書道会は先生の手本に書を求めているのが多く見受けられます。
書の歴史を学ぶ中で金子鷗亭先生の良いお言葉を見つけました。
作品の類型化が進んでいる現状に対して警告する。
「作家不在の書作品は一日も速やかに否定され、未完成であっても、作家の創作性の強い、類型を脱した作品の尊重される時代がやって来て、はじめて書が現代芸術として社会に認識されることになるであろう。
技術主義よりも思想性や、創作性が先行して考えられる風潮に将来したいものである」
(「金子鷗亭-近代詩文書の開拓者-」より引用)
作家不在の書とは個性の無い書のことでしょう。
今は誰かの書を踏襲したものが多く見受けられます。
(書道家を名乗っている方でも大賞を取ってる方でも)
私が地味に古典臨書ばかりしているのはこの類型を抜け出すためです。
まさしく書道の王道と言える方法ではありますが、大変時間のかかる骨の折れることで、
今時なかなかいないタイプだと言われはします。
しかし昔にはそういう方が沢山いらっしゃった。
憧れでもあるし、書の本質を考えた時に自然と昔の時代を想います。
これを成し遂げるためにも中田先生の作品がうちに来たのだと思って、毎日筆を取り続けます。
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