藤井碧峰
1990年2月富山県砺波市生まれ。平成生まれの若手書道家として、古典臨書に基づく正統派の書が持つ本物の字の良さを追求しながら、現代的で、誰よりも敷居の低い、身近な書道家を目指して活動しております。第七回比田井天来・小琴顕彰佐久全国臨書展 天来賞受賞。令和元年、日本三霊山 立山山頂 雄山神社峰本社に看板奉納。
INFORMATION
この記事では【書の三人展】において取り上げました、飯田乕山先生、藤井一南先生、水上碧雲先生の作品を紹介するのですが、お先に各氏の略歴を紹介させていただきます。
1926年 富山県砺波市生まれ
1953年 宇野雪村師につく。
1954年 奎星会員となり上田桑鳩師に益を受く。
奎星会富山支部の結成に携わる。
1955年 奎星会同人となる。
1981年 個展。
2016年 死去。
玄美社同人、富山県書道連盟参与、富山奎星会会長、砺波市美術協会顧問などを務めた。
1918年 富山県砺波市生まれ。
1934年 上原欣堂師につく。
1939年 田中雄峯師につく。
1941年 寧楽書道会入会。辻本史邑師につく。
1945年 女子校に画と書の筆ももって奉職。
1972年 無所属となる。南山社設立。第1回個展(犬山)以来、関西・中京に於いて個展。
1977年 第7回個展。
1979年 第8回個展。
1980年 第9回個展。
1982年 死去。
1926年 富山県庄川町生まれ。
1949年 結婚。富山県砺波市中野へ。
~ 今井凌雪の通信指導を受ける。
1970年頃 中田大雪に師事。
清渓社、富山県書学会(書の光)に入会。
1984年 水上書道教室を始める。
2020年 水上書道教室が36年の歴史を閉じる。
こちらでは各氏それぞれに揮毫した書作品を写真で紹介させていただきます。
書家という人は、文字を正しく整えて書くことを目的としたお習字や書写と違い、書道としてそれぞれの表現としての書を求めています。
そのためここでは作品の雰囲気、表情を感じ取っていただければ幸いです。
右の作品は『亀鶴』と書いてあり、非常に豪快な構成で、見ていて気持ちが良い作品ですね。
よく書かれる「鶴亀」ではなく「亀鶴」なのですが、これは乕山先生が「いつも亀は鶴の下にいて可哀想だから、亀を上に書いた」との話を息子さんより教わりました。
面白いですね。
左の作品は『自画像』という題名のもので、真ん中に将来の自分はこうなっているだろうというイメージをもとに絵を描き入れた楽しい作品です。
私なら絵を失敗しそうで怖くなりますが、どちらも筆で達者にかきあげる方の、楽しむ姿が想像されます。
『人寿年豊』と書かれた作品。
こちらの作品を初めて見た時に、藤井一南先生がとても人気のある書家だったということに深く納得しました。
見た人の心を、音を立てるようにして動かすような、そんな気迫を感じる素晴らしい作品です。
左の『南無阿弥陀仏』と書かれた作品は、見ていてほっこりした気持ちになれます。
右の良寛詩は一南先生がとても好きだった言葉だと、お孫さんからお聞きしました。
一南先生の遺稿集という冊子があるのですが、そちらでも表紙に使われている作品です。
左の『獅子奮迅』という作品は、水上碧雲先生の作品の中でも最も人気のあった作品です。
弟子の私からしても分かりやすくて、先生の良さが光る作品のように感じています。
右の作品は先生が50~60歳頃?の作品と思われます。
一方で左の作品(2019年作)と真ん中の作品(2018年作)は90代になられてからの作品です。
右の作品は50~60歳頃?制作の予想で、師事されていた中田大雪先生の書の影響や当時の創玄書道会の作品の傾向が感じ取れます。
左の作品(2019年作)も90代になってからの作品で、計算では93歳でしょうか。
当時書道教室で、「令和の意味の由来と引用元について調べてくれ」と言われて、調べてお伝えしていたので、懐かしいなと思って見ておりました。
左は飯田乕山先生揮毫の板書きで、柱に書けて楽しまれていました。
真ん中は水上碧雲先生の描いた犬の絵で、よく書道教室中に絵を描いて楽しまれていました。
右は藤井一南先生が描かれた天神様の掛け軸で、息子さんが生まれた際にご自身で描かれたとのことです。
今回の【書の三人展】では、各氏それぞれに絵を描かれる先生であったことが面白いなと感じました。
書をするということは筆を器用に扱うということになるのですが、それとともにデッサン(書で言う臨書)の力であったり、思ったものを形にする力が秀でていたのではないかと想像されます。
「書道とは何なのか?何が面白いのか?」という、書の分からない人における素朴な疑問を解決できる空間が【書の三人展】の会場でした。
書道とは先にも記したように表現の世界です。
三人それぞれに違う良さや書風があり、更に一つ一つの作品の表情が違う。
書に違いがあることを知ると、好みが出てきて、それが面白さを知るきっかけとなります。
見た人が書き手の場合は、自分でも色々書いてみたいなと思えるようになったりもします。
自分で色々書き分けられるようになることは、色々な筆遣いをできるようになるということであり、ある程度自在に筆を扱えるようになると面白いものです。
それは所属する団体の違いであったり、師事する先生の思想であったり、それぞれの書き手の考え方が作品という形で表れたものです。
よく「書は人なり」と言われますが、この場ではそれがよく分かりました。
書作品はただ字を書いてあるのはなく、それぞれに雰囲気が違います。
読めない書は難しいと言われがちですが、雰囲気で見ていくと好きな作品に出合える機会も増えていくのではないでしょうか。
良き書作品それぞれが持つ雰囲気を、書に精通していなくとも感じ取れる方が、以前はある程度多く世の中にいらっしゃったということが、書道界の今と昔を物語っていると思います。
見る側の人間の感性というものは、その対象物との触れ方、見る角度次第で育っていくものです。
書いてある言葉の意味で見るのか、作品全体の雰囲気(表情)で見るのか。
良い方は微妙ですが、前者は国語のテストにしかならず、後者は察する能力に秀でているような感じです。
その見方が備わった時、生活で関わるあらゆるものの見え方が変わっていくのかもしれません。
それは明らかに人間として大きな前進になると信じています。
【書の三人展】は、この小さな空間で、この限られた作品数で、分かりやすく書の魅力をお伝えしたところに価値を持っていると思っています。
それは学芸員ではない、現役の書き手として、近代書道の歴史を学んでいる人間として、取り上げたいことに貪欲に向かい合った結果があの空間です。
多くの来場者からお喜びの声を頂けて、本当に感慨深い出来事でした。
他の【書の三人展】のまとめ記事ついてはこちらのページよりご確認ください。
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