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審美眼と古典について考える

審美眼と古典について考える

この書道の世界にいると時々考えさせられることで、小さい頃から同じようなことを考えていた気もしますが、【審美眼】について考えることがあります。
審美眼とは、美を的確に見極める能力のことです。(goo辞書より引用)
”美しいとは何なのか”ということです。

書道始めた人の多くは「美しい、綺麗な字を書きたい」という想いで始められることが多いのではないでしょうか。
ということは書道教室に求められるのは【美しい字への道をサポートする場所】という意味合いもあるかと思われ、私は書道教室開始以来ずっとその想いを大切にしてきました。
昨日も砺波市の寺島呉服店にて「てらしまDE美文字」と題してペン字講座をして参りましたが、美文字とは何ぞやということを徹底して考えなければただの主宰者の勘違いに終わる話であります。
大体にしてその人の書く基本的な楷書を見れば判断のつくことでしょう。基本的な点画が書けない人も多くいます。

美文字でもペン字講座でも書写でも習字でも何でも良いのですが、全ての本流は書の古典名品と呼ばれる存在にあることを忘れてはいけません。
”創作をする時、古典が邪魔になる”という人もいますが、その人は古典の活かし方を知らないか、単純に書き込みが足りないだけのようです。好きな古典ばかり書いていても何もならず、色々な傾向のものに幅広く手を付けていく中で様々な技法を身に付け、また技法を壊すために古典が存在します。
時々技法に対しての質問をしてこられる方がいますが、技法は書かれた時に真実があって、今それを真実だと言い切れるものは無いということしか言えません。
つまりは古典臨書においてはまずは形臨を徹底してやって、それができる原因となったところを探ることが自分の中での真実となります。
簡単に言うと真実は古典が教えてくれるということです。
最近の人を思うと「これはこう書かなければいけない」という答えをすぐ求めるようです。そんなことは絶対的では無いのだから、自分で古典にアプローチした上で答えを出すほか有りません。

書道家の考える美文字とは。おすすめの美文字練習法を紹介!
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私の中でダントツで美しいと思う古典は、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(楷書)と褚遂良の「枯樹賦」(行書)です。
基本的には楷書の美しさに惹かれることが多く、欧陽詢、虞世南、褚遂良の楷書をベースに制作をすることが多いです。
その点に言えることはシンプルな雰囲気の中にある美しさです。
それを時々”Simple and clean”と言ったりもしますが、研ぎ澄まされた書に美しさを感じます。

藤井碧峰として書道家の活動を始めて3年ほど経ちますが、ずっと古典に書の正統性を求めて活動をしてきました。
他の人に何か言われようと、古典がバックボーンにあることで「ああ、そうですか。土俵が違いますね。」と淡々としていられます。
また、藤井碧峰書道教室においても、お手本の作り方、指導の仕方に至るまで古典をベースとしているため、生徒さんが頑張って書いたものが仮に審査員の先生に気に入ってもらえなくても、「この審査員は審美眼を持ち合わせていないんだな。残念だな。」とか、逆に「審査員の先生を試すくらいの気持ちで」と思ってもらうくらいのスタンスでいます。我々の目指しすところはもっと高いところだから。

頑張ったことに対して評価が伴えば尚更良いですが、一番大切なことはそれに対して頑張ったプロセスであって、プロセスのない上で評価されたことには中身が伴わないのです。仮に小さい頃から上手くいった人が将来大物になるかと言えば、全くそうではないと言えます。天才肌でどんどんできた人には”チャレンジする面白み”というのが欠けていたりするからです。なので私のような地味な人のほうが長く続くわけです。

一部の人だけに評価してもらうことにはあまり価値はありません。そこには数値化されたようなロジックによる評価があるのではなく、感情による、どこかしら偏った評価が存在することがあります。それよりかは古典という大海に出て、より大きな世界観での書の見方と審美眼を身に付けて、他人に由来するのではなく自分で評価できるようになるしかありません。
そもそも自分の価値は自分で決めるものであって、他人の評価に気持ちが上がったり下がったりしているようでは、他人の人生を生きているのと同じことです。それを見つめるためにも古典という存在が、この不確かなことの多い書道の世界では頼りになると信じています。 

古典名品というものがどうして千何百年も経った今も大切に学ばれているのか。それを考えることも、書の良し悪しを考えることに繋がるのではないでしょうか。

審美眼について考える 
審美眼について考える

私の中における美しさの理想は古典の中にもありますが自然の中にも多く存在します。
歌の中にも、車のデザインの中にも存在します。
それは感覚的なものでしかないのですが、ちょっとしたさり気ない美しさにも気づける人間でいたいなと思います。

いつも何度も書いていることですが、自然の中で雄大さや圧倒的な美しさに触れた時、自分という人間存在のちっぽけさに気づかされます。この富山に生きる身として、いつでも自然に触れて、大切なもの・感覚を失うことなく、この活動を続けていきたいものです。

審美眼について考える
審美眼について考える 審美眼について考える

この記事の著者

藤井碧峰

1990年2月富山県砺波市生まれ。平成生まれの若手書道家として、古典臨書に基づく正統派の書が持つ本物の字の良さを追求しながら、現代的で、誰よりも敷居の低い、身近な書道家を目指して活動しております。第七回比田井天来・小琴顕彰佐久全国臨書展 天来賞受賞。令和元年、日本三霊山 立山山頂 雄山神社峰本社に看板奉納。

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