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知られざる砺波の日下部鳴鶴碑と相撲の碑

新しく出合った日下部鳴鶴の石碑

最近、ずっと気になっていた本を読むことができて、気になっていた地元砺波市内の石碑の探究を進めることができました。
一つ調べることができると、【その記載が、どの本・資料を参考として、その石碑が存在することを証明したのか】が見えてきたりします。
また、知り合いの先生が(人生の大先輩ですが)、自分より先にこの手を調べていらっしゃることもあって、お会いした際に確認して進めることができたりもします。

ただ本には大体の場所、しかもざっくりとした書き方で書いてあったりするので、基本的には実地で自分で調べる能力が試されたりします。
この状況下で、役立つのがGoogleマップだったりしました。

探しているのが日下部鳴鶴先生の字なので、Googleマップのストリート画像を見て左右を確認して、前進しているなかで無事2つの石碑を発見できました。
つまり、Googleマップの”少し画質の粗い”画像であっても、日下部鳴鶴先生の書碑は存在感があるという意味でもあります。

今回はそんな書碑2つを、昭和三十七年発行の「鷹栖村史」の内容と共に紹介します。

宮崎峯月頌徳碑

砺波市の日下部鳴鶴先生の書碑|書道家藤井碧峰

名を吉蔵といい、峯月と号し、慶応元年の生まれ。金沢で明清楽を修め、郷里に帰り青年に普及したので門弟が多くあり、建碑の運びになった。(明治四十年)明清楽は明笛を主とし、胡弓号その他の楽器が加わる。
氏は村役場の兵事、戸籍の事務に携さわり、助役の職にも就き、村史資料をよく集められた。
題字は明治三筆日下部鳴鶴の筆である。
(「鷹栖村史」より引用)

砺波市鷹栖地区内に存在する日下部鳴鶴先生による隷書碑です。
建碑された頃は墨が入っていたのではないかと想像されますが、墨が入っていなくてもGoogleマップで見つけることができたのは、この筆力あってのことでしょう。
自分が地元民だったら墨入れしたいものですね・・・

亀カ崎八重蔵の碑

砺波市の日下部鳴鶴先生の書碑|書道家藤井碧峰

明治三十五年二月に建てたもので、明治二十七年の選挙干渉で出町の中神小路で吏党方の白刃を持った壮士と竹棒でわたりあい、負傷したのがもとで病死したので、改進党系の拠金をもとにして建碑したものである。亀ケ崎は大関まで進んだ。碑面の御名号は明治の書家、日下部鳴鶴の筆である。(「鷹栖村史」より引用)

砺波市深江地区内に存在する日下部鳴鶴先生による楷書碑です。
何故鷹栖村史に入っているのかは、昔の村区分の問題なのでしょうか?

相撲力士の碑でありつつも、一向一揆のあった地域であるが故に、このような書碑があるのかなと想像してしまいますが、南無阿弥陀仏の書に何度も向き合ってきた身としては、良い南無阿弥陀仏の書が身近に存在することを嬉しく思います。
下にはこんな書も刻まれています。

砺波市の日下部鳴鶴先生の書碑|書道家藤井碧峰

相撲の碑について

藩時代から明治時代のスポーツは相僕と盤持とであった。相撲にはアマチュアとプロがあって、アマの方は標準語では草相撲であるが、地方では「夜相撲」又は「お鏡相撲」といって・・・ 
・・・昼、入場料を取って興行したもので引退興行をして米の寄贈を受けて石碑を建てる風があり、幕末の頃からの流行である。(「鷹栖村史」より引用)

昔の相撲の賑わい具合を感じることができる文章です。
このような相撲の碑は地域内にも多数あり、当時は富山からも第20代の梅ケ谷藤太郎(二代)と、第22代の太刀山峰右衛門の2人の横綱が生まれていることから、熱狂的なものだったのでしょう。

このようにして石碑は歴史を学ぶことができる存在です。
消えていく石碑も多いなかで、何故それが存在したのかを知ることに意義があると言えます。

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