学生の臨書に対する純粋さを、大人も学ぼう
学生の臨書に対する純粋さを、大人も学ぼう
この2か月ほど、藤井碧峰書道教室の中学生、高校生に古典臨書と向き合っていただいていました。
佐久全国臨書展に出す作品で、先生(僕が書いた)の手本ではなく直接古典を見て書くようにしつつ、指導しているものです。
実際に、僕が書いた臨書作品を真似させるような変なことはさせません。
当たり前ですが、他の教室の方は割とやっていて、やはり日本はお手本主義だなと感じる次第です。
大人の生徒さんも競書誌書道日本の課題を通して、日々古典臨書というものに向き合っていらっしゃるのですが、どうしても参考手本(今の先生が書かれたもの)に目を奪われがちで、直接古典を見て書くのは難しいようです。
それでも「原本を見て書くこと」と伝えるのですが、自分に楽させようとするのが大人の辛いところでしょうか。

学生さんたちは、その点で直接古典を見て書くことに対して、最初は少しためらいがあるものの、その後はずっとそれ(=小さな原本の字)と向き合って、ひたすら何枚も書き続けています。
まるでゲームの中にあるルールの中で、自分を正しながら前進するかの如く、見ていて嬉しくなるものです。
そんな純粋な彼らの手から生み出された臨書作品は、一人一人選んだ古典も違うのですが、それぞれの古典の味わいが出ており、後に出てくる結果云々よりも、このゲームに真剣に向き合った彼らに敬意を感じる他ありません。
若いからできるとか、大人だからできるとかではありません。
言葉にするのは難しいですが、「字に対する純粋さ」のようなものが彼らには備わっている気がします。
僕は、ひたすら古典臨書を続けてきた身ですが、それはあくまでも地元の所属団体で師範取得後、実力不足を深く自覚し、書学のあり方について見直した頃から始まったような話です。
字形が怪しい時には、参考作品を見たりして確認したり、作品全体で雰囲気を出せない時には、参考作品を見て、また自分が直接古典と向き合う世界に戻る。

そうして、如何に古典のような字を忠実に書けるようになるか、書き方を見直すなどしてきました。
しかし、自分が法帖を直接見て徹底的に真似て書いたつもりのものも、周りから「違う」と言われるということがありました。
それは、今考えても合っていると言える書き方でしたが、彼らの中では彼ら自身の書く”忠実でない線”が答えだと感じているようだったので、変だなと感じてスルーしながらここまできました。
自分が何を言っても、古典の字、線、雰囲気が一つの答えであって、そこに対するアプローチの仕方として、ある程度シンプルに(楽に)、その線をきっちり忠実に書けたなら、古典の中にある書き方、筆法を一つ学んだことにも繋がるのではないかと考えています。
古典を書いた人は今より小さな字で、一気に何字も書いているのですから、自然で楽に書ける方法を求めるのではないか。
いつでもそんな風に思います。




