憂鬱でなければ書家ではない①|試されるから成長する
戦うからこそ憂鬱が生まれる。憂鬱があるからこそ戦い続ける
書道の仕事を表現するのは難しいなとつくづく感じるのですが、書家と名乗っている人は沢山いても、僕が思うような書家はなかなかいないというのが現実です。
それは書に誠意があって、仕事に誠意があるということです。
医師、弁護士や税理士のように、制度があるなかで得られる資格ではないので、いわば言ったもの勝ち、川が氾濫しているかのような画が日々目に映ります。

このブログのタイトル【憂鬱でなければ書家ではない】は、尊敬すべき経営者の著書から真似たものですが、冒頭部のように「書道の仕事を表現する」には良い表現だと感じて、つけてみました。
起業する前からも、起業後も、今もなお憂鬱なことは起こり続けます。
それは性格の関係でそうなっていること言われればそこまでですが、挑戦し(戦い)続けているからこそ、必ずと言っていいほど憂鬱になるような壁が、度々目の前に現れてしまうというものです。
これまでも書の楽しみ方について度々書いてきましたが、今回はそんな書家や書道に関わる者特有の話を書き記します。
「憂鬱でなければ書家ではない」ということは、この度合いがひどいほど、憂鬱に感じているほど、書に真剣に向き合えているという意味も含ませています。
たかが字を書くことに凄く手間が掛かる
日本では小さい頃からお習字の時間などで毛筆を習うし、字自体は誰でも誰でも書けることから、「そんなんチャチャッと書いて、一筆いくらの世界なんやろ?」とか言われることもあります。
実際には、一般の方が気にならない程度の誤字や、雑っぽさが気になって、簡単に筆を進めることは難しいです。
つまり綺麗に書いているというよりは、”大切に書いている”ということです。
僕からすると起業する前から、いや小学校の頃からノートに字を書くだけで大変だったのですが、自分の書いた字が妙に汚いと気になって、直さないと気が済まないんですよね。
書道教室では毛筆の課題ばかり(半紙2~4字)やっていて、硬筆はあまりやらない教室だったので、それほど硬筆の字は得意でもなかったのですが、それでも誰かに何か言われるわけでなくとも、何度も消しゴムで消して書き直して、ノートをとっていました。
という理由で、大学に入ってからもノートをとるのが遅いので、友人のノートを見せてもらったりしました。
根拠を取るために、ひたすら字書を引く。古典法帖を漁る。

先ほど「一般の方が気にならない程度の誤字や、雑っぽさが気になって、簡単に筆を進めることは難しい」と書いたのですが、SNSやネットの投稿でも書家と称する人の誤字は散見されるのが実際のところで、書(字)の世界は非常に難解です。
今の時代はこのブログの字も含めて「活字」というものを使って、文章を作ったり、日常的に利用しているわけですが、その活字は本来筆写体(中国、日本の古典に拠って書かれた字)からできているはずなのに、謎の変体が生じて「辻」の字は2点しんにょう、「道」は1点しんにょうといった謎のひっかけクイズも生じているというところです。
「北」や「比」のつくりはヒですが、ヒは左から右に平行に書くものが、この活字の生まれる頃には右から左に斜めになっていたりします。
(※深くは触れないので、ご自身で調べてみてください)
筆写体は筆書きに適しているし、美しいし、格好が良い。
ただお客様は活字の世界で基本的に生きていらっしゃるので、お客様が求められるもののイメージと、書き手が書きたいものとのズレが生じるので、、事前確認も必要だったりします。

また行書体、草書体で制作する場合は、活字から想像できない形に変わることも度々あります。
この「魂」の額装作品は、活字ベースで作った行書体に仕立てています。
というのも、古典の中での魂という字の行書体は、”鬼”の1画目となる点が存在しなかったり、最後のムの箇所が点になっていたりという変化をするため、あえて現代人にも見やすく書いたのがこの書き方です。
つまり下の書き方のほうが書道をしている人や、昔ながらの人にはなじみやすいということですが、我々工芸作家として大切なことは、お客様が求めた形を極力取り入れて最高の技術で仕上げるというところがポイントです。
当然、活字ベースとすると、最高の技術を出し切れないこともあるので、その際はお客様にも分かるようにお伝えしたうえで、最高の作品を作り上げていくというのが、僕にとっての誠意です。

ただし、字形として明らかな間違いとなるものは多く存在します。
この線が縦画より右側に出てはいけないとか、この書き順は間違っている等、誤字のパターンは色々あります。
そうならないように字典を見るのですが、信頼できる字典もあれば、信頼できない字典(間違った古典引用をしているもの)も存在します。
何でも古典引用している字典もあるので、誰が選定しているかということも重要です。
この際に、僕には僕なりの誤字センサーがあるのですが、仮にも楷書、行書、草書、隷書、篆書、仮名を手掛ける人間として、それぞれの書体を見ながら根拠を探して、要点を押さえながら制作を進めていきます。
隷書ばかりやっている人が突如行書を書こうとしても、間違ったことに気づけないで書いているパターンも度々あって、やはり幅広く、深くやることは大切ですね。
著名な書家が書いたものだから必ず合っているというものでもありません。
古典法帖にも欠けている箇所(石碑の場合、風化等で欠けることがある)があって、そこを書く際にどう対応するかが、その書家の試されているところだと思います。
この時、信頼できる書家の書いた作品が沢山あって、同じように補った箇所があれば安心材料にはなりますが、それをただ真似れば良いというものでもなく、「どうしてそのように書いたのか」という点が曖昧な場合、(僕は)気持ちよく書けませんし、書に対してもお客様に対しても誠実ではないように感じます。

これが非常に憂鬱なことではあるのですが、誠実でありたいために、絶対に避けては通れない道だなと感じます。
手を抜いて世に出してしまうと、お客様が損してしまったり、恥をかかれるかもしれないと思うと恐ろしいことです。
この憂鬱の繰り返しのなかで、書と向き合ううえでの沢山のノウハウを得ることができます。
僕は書道の学校に行ったことはありませんが、教わってできることではなく、絶えず考えて、実践していくなかで鍛え上げていけることだと信じています。
度々”試されている感”が無いとつまらないというのがこの仕事
先ほどに続いてのことですが、良い字を書くには段取りがほとんどであって、本番書きは一瞬、とにかく段取りが命です。
表札なんかは分かりやすい例で、間違えると大工さんに削り直していただかなければいけないので、良い状態のままで納品できるように気を張ります。

「表札の依頼を頂いたので、一枚書きます!」で、挑んだところで上手に書けないところが好きな仕事です。
(当時は非常に楽しみでありつつも、憂鬱なものでしたが・・・)
迷いがあると滲むし、書くのに適した道具を使っていないと失敗確率が高くなるし、というところです。
大工さんが綺麗に仕上げてくれた、木材(天然銘木)の美しさ、綺麗さを失わないようにしながら、書くということは職人技と思っているものです。
お客様の持ち込みの材料の時に、時々乾燥不足のものであったり、表札の材料に適していない木がやってくるのですが、大変ではあるものの、そういった際にも調べて対応する力を試されている気がして良いものです。
木材の性質を日々学び、木材と対話しながら書くものだなと感じています。
なので、体調が悪い時に書くことは当然あり得ません。

ずっと似たようなパターンの簡単な仕事をしていても収入は得られるものの、度々”試されている感”が無いとつまらないというのがこの仕事です。
(変なクレーム的な試され方は嫌ですが)
表札の字を書くこと自体、お客様のお名前がそれぞれに違うわけですから、毎回最適解は違うものと感じています。
このように書家は、ご依頼を頂く度に最大限に努力して、最適解を導き出していくことで、永遠に進化し続けられます。
以前できなかったことができるようになって道が開けるパターンであったり、気になっている点が違和感なく受け入れできるようになるまで徹底的に潰す(書き込む)といった、苦しい展開の中にその達成感は得られやすいかもしれません。
ただ、そこまで頑張ったからと言って、永遠に勝ち続けられる答えが得られるというものでもないのがほとんどです。

制作のご依頼は先に代金を頂いていたり、予算が決まっていたりするため、行き過ぎると奉仕活動になってしまうのですが、それでも書に対して、仕事に対して誠意があれば、今自分が何をすべきかが見えてくると思います。
僕も数年前よりは予算の組み方が上達したので、頭の中では「時間かかり過ぎてるな、、、」「いつ答えが見えるんだろう、、、」という制作は減りましたが、時々そんな瞬間が訪れるのが書家です。
それでもその時に頑張って壁を乗り越えていくことで実力を伸ばし、次の楽しくて試される仕事へ挑戦する権利が得られると感じています。
次の楽しくて試される仕事は何なのか分かりませんが、いつでも知らない誰かが見ていてくれていて、そんな瞬間が訪れるものだと信じていたいなと思います。




