藤井碧峰
1990年2月富山県砺波市生まれ。平成生まれの若手書道家として、古典臨書に基づく正統派の書が持つ本物の字の良さを追求しながら、現代的で、誰よりも敷居の低い、身近な書道家を目指して活動しております。第七回比田井天来・小琴顕彰佐久全国臨書展 天来賞受賞。令和元年、日本三霊山 立山山頂 雄山神社峰本社に看板奉納。
INFORMATION
勉強を頑張りすぎないタイプだった私は、のどかな田舎の高校に行くことになりました。
この高校は富山県内で一番歴史のある高校で、歴史があるだけに沢山の卒業生を出しており、祖母、父、母方の祖父母も同校出身です。
父は卓球部OBで当時部長をしており、県のトップを争う強い部だったそうですが、私が入部した当時はその面影もなく、テニスやらバスケットボールをして遊んでいるような不真面目を絵に描いたようなダメダメ部活でした。
熱心な同級生もいて先輩に「真面目にやりましょうよ」と投げかけても相手にされず、悶々とする日々が続きました。
私は初心者な同級生と練習し、どうしたらこの環境で上手くなれるか考えながら攻撃重視の練習をするようになっていきました。
攻撃重視の練習をするにつれ新しいプレースタイルを身に着けようと沢山のプロ選手の
動画をネットで見つけては携帯電話に保存して見ました。
影響を受けたのは当時世界ランキングでトップ10に入っていた韓国の朱世赫(Joo Sae Hyuk)、オーストリアの陳衛星( Chén Wèixīng)といった超攻撃的カットマンです。
特に陳衛星いたっては、バックはカットですがフォアは攻撃マンというようなプレースタイルで、これをやってみたいと思いラバーを変えて徹底研究しました。
またフォア面の攻撃力強化のためペンホルダーの選手を研究しました。
韓国の柳承敏(Ryu Seung Min)、中国の馬琳(MA Lin)といった選手で、回り込みフォアドライブを研究しました。
シェークハンドに関しては中国の王励勤(wáng lìqín)、陳玘(Chen Qi)、ギリシャのカリニコス・クレアンガ(Kalinikos Kreanga)などパワーのある選手を研究しました。
これらの研究が後々自分だけでなく周りの部員の指導にも役立ちました。
2年生の6月になり先輩たちが引退し、部長を決める時期になりました。
しかし話し合いは行われず、不真面目な先輩に気に入られていた同級生が仕切ろうとし始める。
これに対し、これまで真面目にやってきた部員は猛反発し、彼が居ない時に私が”お試しで”部長をやりました。
自分の父が部長だったというのもあるし、昔強かった時代の卓球部を語られ、「強い卓球部の復活」を願う気持ちから部長になりたいと思っていました。
お試しの1日部長は上手くいき、後日部長と目標を決めるミーティングをすることにしました。
その結果私が部長になり、部長になるつもりだった人間は部を去っていきました。
それからは部員7名で「あれがいいんじゃないか」「これはこうじゃないのか」と話し合い、父のアドバイスを聞いたり雑誌卓球王国を読んだりして、練習メニューの基礎作りをしました。
顧問は毎年変わるような状況で、コーチもいなかったため部員だけで頑張りました。
練習環境を変えました。
週に平日2日も休む状況で、ほとんど強いバレーボール部にコートを支配されていましたが、部長や顧問との度重なる交渉で1日練習を増やさせて頂きました。
厳しい顔で迫られて大変でしたが、自分たちの想いを知ってもらう良いキッカケになりました。
そうしているうちに周りの顧問が応援してくださるようになり、古くなった卓球台を変えたり、体育の授業の経費で道具を買ってもらったり、体操メニューを教わったりしました。
コーチは不在でしたが私の父や後輩の父もOBとして練習をみてくれるようになりました。
顧問が適当な人で、高体連の試合しか出たらいけないと言う人でしたが、これも父が電話で私たちの気持ちを代弁してくれて出れるようになりました。
頑張っていると周りの人が応援してくれることを実感しました。
当時部長として周りの高校との連携を強めました。
それまで他校と練習試合もしなかった我が部でしたが、積極的に練習試合を行うようになりお互いに尊敬し、刺激し合える関係になりました。
また他校の顧問の先生とも親しくなり、行くことはありませんでしたが遠くの高校から練習試合に招くときにお声をかけて頂けるようになりました。
そうして日に日に部員の実力は向上していきました。
総体へ繋がる春季大会では物凄く緊張しました。
2週間前から授業中でも胸騒ぎがして、卓球のことしか考えていませんでした。
これで総体出場が決まる、という試合の前に顧問に「ちゃんと繋いで確実に点を入れるように」と言われ、その通りにプレーしてまさかの敗北で総体に行けないことになりました。
顧問が悪いわけではありません、自分を信じて攻めるプレーをしなかったことが敗因です。
この時のショックは本当に大きく、卓球人生で一番悔しかったです。
部長として良い流れを作らなきゃいけないのに情けない限りでした。
ダブルスでは気持ちを切り替えるために、大胆に練習用の攻撃用ラケットに。
これで当時県一番の強豪校のダブルスに2-3で負けはしたものの良い試合でした。
総体では団体戦ベスト8を目指し、結果的には接戦の末ベスト16で終わりましたが、部員それぞれが精一杯自分の力を発揮して嬉しかったです。
ダブルスでは団体で負けた高校のペアと当たり、3-1で勝利し気を晴らしました。
次の対戦相手との試合では相方が緊張し過ぎでサーブが浮いてダメダメでしたが、良き相方との最後のプレー楽しませていただきました。
私たちは結果としては目標は達成できませんでした。
しかし自分たちが何もないどころかマイナスのような状況下から、自分たちの力で変えて作り上げてきた環境、実力、結果、思い出が、何よりも大きい収穫です。
こればかりは最初から良い環境が整っていた部活には真似出来ません。
だから不真面目だった先輩にも感謝しています。
本当に良い経験をさせてくださってありがとうございました。
そして部長をしていた当時のメンバーとは今も定期的に会う最高の仲間です。
良い経験が結びつきを強くしました。
高校の時の部長の経験が今の自分の考え方の基礎を作っています。
何かを変えたいなら自分で変えるしかないし、絶え間なく動き続けることだ。
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