藤井碧峰
1990年2月富山県砺波市生まれ。平成生まれの若手書道家として、古典臨書に基づく正統派の書が持つ本物の字の良さを追求しながら、現代的で、誰よりも敷居の低い、身近な書道家を目指して活動しております。第七回比田井天来・小琴顕彰佐久全国臨書展 天来賞受賞。令和元年、日本三霊山 立山山頂 雄山神社峰本社に看板奉納。
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先日、大学時代とかに書いていたブログを読み返していて、自分は起業する5年前くらいまで書道のことに関しては、恩師の水上碧雲先生のことと古典ばかり意識して行動してきたんだなと振り返っていました。
水上先生は表に出てない先生ですし、教室も小規模なので公募展にもほぼほぼご縁が無い私だったのでした。
なので影響を受けるのは先生か古典。
ライバルは先生だけ(年齢差60歳以上)
小さい頃はお手本ありきの自分でしたので、それはそれは先生の字に似てきます。
この長い横画のうねる書き方、多分お手本以上にやってしまってます。
これは中学生の頃に書いた字ですが、この横画は完全に自分のものになってしまってます。
こちら何故か冬の横に筆を落としたもの。
藤井って名前は難しすぎると思うんですよね。
これは太い筆なので高校生の頃でしょうね。
不安定なところがありますが、字の表情はほぼ同じ。
半切なので、高校生頃のの正月に書き初めで書いたものだと思います。
字の表情が今と似ています。
こちら「五寿会」の字は2014年秋頃の字。
ここまでくるとほぼ今と同じ雰囲気の字でしょう。
続いては水上碧雲先生の字です。
一番先生らしいなと思った石碑の字でお届けします。
特に漢字の書き方については、字の表情がそっくりです。
書道始めたのが4歳で、30歳まで水上先生に習っていたので、それだけ似てくるということでしょうか。
いいえ、しかし2012年に地元の会で師範資格を取得してから先生にお手本を書いてもらっていないのです。
そこからは古典を直接見て臨書するか、(創作は)本の他の先生の参考手本を見て書くかの2択でした。
当時書いていたのはほとんど九成宮醴泉銘、孔子廟堂碑、集王聖教序、蘭亭序、枯樹賦、文皇哀冊といった古典でした。
ということで今の字の表情を作り上げているのはこの古典だったなと思っていて、水上先生自身もこれらの古典をもとにご自分の字を作っていかれていたように感じます。
(天来書院「化度寺碑」より引用)
古典は拓本によって多少見え方が変わります。
それでもそんなに極端に変わるものでも無いのがほとんどです。
ということは水上先生と古典の見え方がほぼほぼ同じだったということが言えます。
後になって石飛博光先生に師事しておりますが、習いたいと思った理由の一つに「古典の見え方が同じ傾向だったから」というのが挙げられます。
古典の字の表情をどう汲み取るかが大事です。
僕はとことん写実的にやりたいわけです。
それをするにも自分でできていると思い込むのは駄目で、客観的に純粋に見てくれる人の力も大切だなと思います。
宗教じゃないですから、うちの教室的にはOKとかいう問題ではないですしね。
ここまでそれなりにお客様や周りの先生方のお話を聞いてきて、ビジネスモデルとして成功しているとかでなく、書としても愛されるように、魅力と言えるものとなってきているのは、元々持っていた自分の書く字の持つ表情にも大きな要因があるように感じます。
これを僕は【味付け】、車業界で言うチューニングのようなものと捉えています。
この表情にならなければ藤井碧峰としてその作品を表に出さない、お客様に届けないといったような。
自分の中の人にしか分からない繊細なものでもあり、日本酒造りにおける杜氏のようなものでもあります。
つまりどう言えば良いか、それは見た人次第です笑
自分から見て先生の字は誠実そうで、いかにも正統派の字でした。
どんな字を書いても正面を向いているような、軽やかに書いても字が座っているというか。
自然とそれが好きになって正解の一つだと思っている僕も、同じような字を書くようにはなってきましたね。
また、当たり前の字を当たり前に書けること。
それも水上先生の大切にされてきたことです。
実際には教わってどうにかなる問題ではなくて、僕に関しては自習学習で対応してきました。
それでも方向性を教えてくださったと言う点で、水上先生の存在なしに今は無いなと感じるわけです。
指導者と言うのは誰しも万能ではないため、余白となる部分をどう料理するかが教わる側に求められます。
余白の使い方次第で、その人の書に対する接し方も大きく変わります。
それでも必ず師匠の影響は受けます。
今仮にも起業から5年経って、字を生業として生き残っているのは、先生から受けた影響が良かったものが多い証拠でもあるのかなと思っています。
それはそろそろ事実だと完全に認め切っても良いようにも感じています。
先日見つけた21歳の頃のブログの記事を引用してみます。
一人の大学生の心が純粋に表れています。
僕が書道を始めたのは4歳の時。
2歳上の姉が1ヶ月前に書道を始めていて、それにつられて何気なく始めたのでした。小学校に入ると同級生の書道仲間も増え、一時期は10人くらいいました。
塾全体だと社会人の方とかも含めて50人くらいいました。小学校高学年になると同級生もかなり減りました。
中学校になると僕ひとりになりました。
周りの学年も少なくなっていきました。
姉も高校で辞めました。そんななか、僕は未だに書道を続け17年目、来月で18年目になります。
今では塾には10人くらいしかいなくなりました。就活で使ったセリフだけど、僕は小さい頃から変わることなく、先生が良いと言っても、自分が納得できていなければ、納得できる字が書けるまではずっと残って書いてたし、60枚とかは平気で書きます。
先生にたまに笑い話で言われるけど「お前は小さい頃、泣きながらも最後まで頑張って書いていた」と。
今もそうですが、僕は小さい頃から理想を追い求めていたんだなと思います。高校3年の時、大学受験の勉強に集中させるために書道教室へ行くのを禁止されました。
そのことを先生に告げて帰る時、泣きながら帰ったのを覚えています。
何気なく始めた書道は自分の生活に欠かせないものとなってました。大学を決める時、地元を選んだのもここに通い続けるためというのが大きかったです。
先生はジジイだったし、しっかりしているとは言え歳を感じさせられるところがあって、今習っておかないと後悔すると思いました。ここまで続けれるのも身近に良い先生に出会えたからです。
凄く熱心に教えてくれるし、凄く大切にしてくださってます。
僕に対して後継ぎとか先生は考えているみたいだけど、先生に追いつくにはあと何十年掛かるのだろうか。今後ますます書道という存在は貴重になっていく。
教える人の高齢化が進んでいたり、習う人が減っていたり。筆を持って字を書くどころか、自分の手で字を書くことも減っていく。
そんななかでも僕は続けていきたい。
そしていつの日か、自分の誇れる財産となりますように。
こんな内容でした。
途中ジジイとか書いていますが、自分にとっては実際にそんな身近な存在でした。
当時家族以外で一番会っていて、誰よりも付き合いの長い人でした。
師範資格を取得した時のお祝いの席でお話しした時も、佐久全国臨書展のパーティーでお話しした時も、水上先生と自分のことをメインにお話ししていました。
自分にとっての書道には水上先生の占める影響が大きく、先生が高齢だったが故に築き上げられた悲壮感があったから生まれた、若き者としての使命感がありました。
若い先生に習っていたらあり得なかったことです。
最終的には書家になったことや、意思の疎通がうまくいかなくなったことで先生のもとを離れることになりましたが、先生が教室を辞められてからまた連絡をいただき、わだかまりもなくなりました。
知っている人がいようといまいと、やはり自分にとって育ての親である水上碧雲先生の存在は大きなままです。
先生にはコロナ禍のこともあって3年ほど会えないままでいますが、元気でいてくれると嬉しいのですが。
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