藤井碧峰
1990年2月富山県砺波市生まれ。平成生まれの若手書道家として、古典臨書に基づく正統派の書が持つ本物の字の良さを追求しながら、現代的で、誰よりも敷居の低い、身近な書道家を目指して活動しております。第七回比田井天来・小琴顕彰佐久全国臨書展 天来賞受賞。令和元年、日本三霊山 立山山頂 雄山神社峰本社に看板奉納。
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先週の土曜日、母方の祖父がこの世を去りました。
もの凄くアクティブな方で、会社員の頃も、退職してからも活発に動きまわっていたイメージしかありません。
ここ数年は病気を患い、徐々に動けなくなっていき弱っていくおじいちゃんを見て、少しでも何かできないかと思い、極力会えるようにしていたものです。
元々私は港町の会社に勤めるサラリーマンでした。
大学卒業して、社会人になって1か月後に我が家の曾祖母が亡くなりました。
長く痴呆で、ずっと施設に入ったきりの人でしたから、小さい頃しか関わりがありませんでした。
当時は引き継ぎもできていない時期で仕事も落ち着かず、”これがもっと身近な人だったら・・・”と、一人で勝手に恐れたものです。
その後6年会社勤めをしましたが、好きな時に休めない、休みたい時に休めない、いわゆる自分が抜けてはいけない環境が続きました。
風邪を引いても、胃腸炎になっても、低血圧で眩暈がしても職場にいました。
そんな時は曾祖母が亡くなったの時のことを思い出しました。
会社勤めをするということは安定した収入を得られる選択であるとともに、時間を自由にコントロールする権利をほぼほぼ失います。
レールにはまるということは寄り道もしにくくなるということです。
そういった考えが浮かぶほど、会社によって拘束される時間が惜しく感じ、とにかく仕事を早く終わらせて、自分の時間を作ろうとしました。
ある時は会社に残業代が出ていないことを指摘して揉めましたが、一部の人には”金の亡者”のように言われましたがそうではなく、時間の価値を問うべく言ったものです。
時間はお金では買えません。
時は何をしても取り戻せません。
人の命は取り戻せません。
この現実は目を閉じても、夢から覚めても変わることの無い事実なのです。
これらの経験があって時間に対する不安が自分の中で大きくなりました。
もちろんお勤めの会社によってはもっと自由に時間を得られる会社もあるかもしれません。
しかし、完全にコントロールすることは難しいはずです。
独立起業した一つの理由にはそういった時間の融通が大きな意味を持っています。
そして曾祖母の時に感じたモヤモヤはそれでしか解決できないことも分かっていました。
退職を決意した時には、既に母方の祖父は病気で動けなくなってきていました。
何事も後悔しないために動きました。
退職したと伝えた時、おじいちゃんはショックを受けていたけど会う時間は作れました。
おじいちゃんが外出もままならなくなってきていた時に、おばあちゃんと母と自分と4人で桜を見にドライブしに行ったり、息抜きに顔を見に家に行ったりしました。
それから1年が経ち、去年の夏ごろに更に動けなくなり病院に入院してました。
当時、立山雄山神社への看板奉納登山を成功させ、おじいちゃんに報告したくて、新聞記事と山頂で撮った写真を持っていってお話しました。
会話も難しくなっていましたが嬉しそうな顔をしていました。
その後、退院したけど施設に入ることになりました。
インフルエンザの時期が重なり会えなくなり、そのままコロナウイルスで会えなくなりました。
春に病院での手術のため、移動する時に施設の玄関でタイミングを合わせて久しぶりに会いました。
車の中から嬉しそうに見ていました。
その後にもう一度似たような感じで顔を見た時には元気がない感じでした。
8月の終わりごろ、母がZOOMでの面会をした時、目が開かなくなってました。
”いつ会えなくなるか分からない”
それは常に感じていました。
面会もまともにさせてもらえないこのご時世に、9/15(火)にZOOMでの面会の機会を頂きました。
時間は無いけど無理やり作る、そんなつもりでいました。
しかし、9/12(土)昼過ぎにすぐに病院に来てほしいと呼ばれ、駆け付けたものの3名しか入れず、私はロビーで姉とともに待ちました。
間もなくしておじいちゃんは亡くなりました。
母が私と入れ替わって病室に入れようとしたものの、施設の決まりで不可能でした。
まだ温かいうちに顔を合わせることもできず、家に戻ってようやく顔を合わせました。
自分の中では曾祖母の時のことを思って、会社を辞めるという決断をできたのは人生のコマの進め方として成功できたと言えます。
モヤモヤしていても動かなかったのが過去の自分だったので大きな進歩でした。
しかし、コロナの中では時間を自由にコントロールできるようになっても、時既に遅し。
おじいちゃんと会える機会をどんどん失ってしまいました。
小さい頃からたくさんお世話になったおじいちゃんに、少しでも成長したところを見せたいと思って活動してきたのに、それが叶わないまま終わってしまいました。
『何事も拙速に』
とにかくスピード感を持って動くことを会社員時代から大切にしてきたのに間に合わなかった。
これは自分の力不足以外の何でもありません。
この事業の立ち上げから2年ほどでようやく食べれるような水準になって少し安心していた自分が馬鹿馬鹿しくなり、哀しみの涙と悔し涙が混じりました。
でもおじいちゃんに会った最後の何度かのタイミングは平日の日中で、この仕事だからこそというところがあって今は本当に複雑な気持ちです。
いずれにしても、おじいちゃんには本当にありがとうございましたとしか言いようがありません。
小さい頃、よく井波で遊んでもらったけど、いつになっても良いおじいちゃんでした。
病になってからも奇跡が起こることを信じていたけど、奇跡は起こりませんでした。
あんなに動き回っていた人だから、病気で次第に動けなくなる自分の身体に相当悔しい想いをしていただろうと思います。
長く辛い時間を暮らしただろうし、今頃自由に動き回って、大好きなお酒を沢山飲んでいたら嬉しい限りです。
僕の書いた三笑楽のお酒も見せられなかったから、お店に出てきたら飲んで欲しい。
仕込みの手伝いまでしたんだよって。
おじいちゃんの血を継ぐ者として、恐ろしいほど活動的だったおじいちゃんに負けている現状から目を逸らすことなく、今後の人生をよく生きていけるよう活かして参ります。
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