藤井碧峰
1990年2月富山県砺波市生まれ。平成生まれの若手書道家として、古典臨書に基づく正統派の書が持つ本物の字の良さを追求しながら、現代的で、誰よりも敷居の低い、身近な書道家を目指して活動しております。第七回比田井天来・小琴顕彰佐久全国臨書展 天来賞受賞。令和元年、日本三霊山 立山山頂 雄山神社峰本社に看板奉納。
INFORMATION
今となっては笑い話かもしれませんが、かつては「書道やってるのに字が汚いね」「書道やってるって言うけど、あんまり年賀状の字は~」ということを、人生の長い期間言われておりました。
割と凹むもんですよ(笑
今回はそんな実用書の字が汚かったことと、その改善の道に関するエピソードをお届けします。
4歳から書道教室に通っておりますが、小学校の途中までは硬筆の課題も書いて出していました。
それが多分高学年に上がる頃から、先生に「お前、そんなん書かんで良いから筆をやれ」と言われて、硬筆はやらなくなりました。
親からも、学校のノートはそんなにきれいじゃないと言われたことがある気がしますが、姉の方が~と言われていたので少し安心していたかもしれません。
一方で、小中学校は殆ど書き初め大会は金賞取って県大会に行っていたので、変に”字が上手い人”という扱いをされていた気がします。
高校生になってからは書道部に入らず、書道の授業すら取らずにいたので、書道をイメージされることもなかったので、良いも悪いも言われずに済みました。
大学もほぼそんな感じですね。
大学を卒業して伏木海陸運送という会社に入社したのですが、面接試験時に当時ご存命の橘康太郎会長に色々と聞かれて、書道の話を引き出していただきました。
最後にコメントで「藤井さんは最初緊張した感じでお話されていましたが、書道の話を振った途端に顔つきが明るくなって良かったですね。書道をされているとのことですが、字はあまり綺麗には見えませんでしたが・・・」等とのお話をいただきました。
書道のおかげで採用いただけたと感じているのはそのせいです。
一方で、自分なりに丁寧に書いたはずの履歴書が、そう(=綺麗じゃないと)受け取られたのだと思い、このままじゃいかんなとも感じましたね。
会社に入ってからは職場の方々に年賀状を出すのですが、裏書きは頑張るものの表書きは苦手でしてね。
そういうところで上手くないということを簡単に見破られるものです。
字を上手く書くにもそもそも道具を吟味していないし(昔から家で使っていたような毛筆じゃない筆ペン)、漢字一つ一つの格好の良い形も分からなければ、様々なセオリーも知らないものですから、変に頑張ろうとすると良くないことに気づきました。
2013年くらいに、本当に仕事が辛くなって朝から夜遅くまで働いて休みが無いなか、そんな時でも前に前進していると思いたくてボールペン字の自習を始めました。
人間、前に進んでいるものが一つでもあれば、ちょっとは明るい気持ちでいれるものですから。
当時は書店に行っても良い本を見つけることができなくて、持っていた競書雑誌のボールペン字の真似を毎日10分でも欠かさずしてましたね。
その頃に仮名もそこそこ一生懸命練習していたので、平仮名のことも理解し始めていたので楽しかったんだと思います。
会社員生活は6年間過ごしましたが、書道やっていない人が「~くん、字が綺麗だね」って言われているのを見ると、「ん??」とか思うのですが、一方で書道をやっていたと何度も口にするけどやたら字が汚い人も目にして、その中でどういう字が綺麗に見えて、どういう字が汚く見えるのかを学んでいきました。
会社は作業員の方が多くて、自分自身現場事務の仕事についていたものですから、ある時作業員から「藤井、ヘルメットに貼る名前シール作ってくれるか?」と言われて、少し離れた事務所にテプラを借りに行って作ろうと思いましたが、ただ動きたくないという気持ち?から筆ペンでお名前を書いたものをシールにしてお渡ししたら、物凄く喜んでもらえました。
それから作業員から人気のサービス?になり、仕事中に沢山のお名前シールを書いていったので練習にもなるし、スマホのアプリで字典を使って字を調べるようになって、字を選ぶセンスのようなものも磨いていったようです。
元々太筆で書く毛筆の字は評判が良かった?のですが、実用書系の字というのは別だと感じましたね。
太筆ですることを小筆等に落とし込むのも訓練が必要です。
仮名に手を付けていなければ細筆や筆ペンのような繊細な技術は身についていなかったはずです。
と言うのも持ち方、書き方はほぼ同じで、そのまま書く内容が変わったような感じで今のところ実用書を書いております。
つまりは実用書は誰にも習ったことが無いということです。
起業する直前、九州へ旅に行きましたが、K先生に「生まれつき綺麗な字を書ける人と、そうじゃない人がいて、碧峰くんは綺麗な字を書ける人だと思う」とコメントいただきました。
ありがたいことですが、これは最初から綺麗な字を書けるという意味ではなく、視覚的に純粋に綺麗なものを綺麗と捉えて、字を書いた時にそれを純粋に構築する能力がある、という意味だと自分の中で考えています。
自分にはその学び方が分かっていなかったということと、良いお手本が無かったというのが当初の問題で、今の書道教室の運営時に活かしています。
ある意味ではそんな環境で育ってきて、もどかしい想いを蓄積してきたからこそ、師である石飛博光先生の本に出合った時に、癒されるというか、こんな素晴らしい美しい字を書く人がいるのかとえらく感激しましたね。
先生に師事してからは、競書雑誌書道日本の良い実用書お手本に出合うこともできました。
藤井碧峰書道教室の生徒さんは、早いうちから良いお手本に出合えて幸せだなと思います。
とは言え、回り道をしてきた自分だからこそ、王義之を基軸にした字での表札や筆文字スタンプを作れているという事実もあります。
幅広く書道を見ているからこそ、縁空さん等でのペン字講座は伝え方がオタクレベルですが、人気なイベントで居続けています。
書というか字について一般の方と色んなお話をしてきましたが、字が綺麗だと清潔感があるし、賢く見えるらしいですよ。
逆の場合は、何だか雑っぽそうだとか、部屋が汚そうだとかいう印象を持たれてしまいます。
それは知らない間に得するし、知らない間に損しているということです。
なので、教室ではほとんどの子供たちが硬筆を書く流れを作っています。
大人の生徒さんとは、ライバル関係?(笑)ということで、一緒に競書雑誌の課題を出して互いに研究しています。
総じて言えるのは、書道をしているから誰もが字が綺麗というわけでなく、書家・書道家と名乗っている人も同じことです。
僕も美文字という言葉は使いますが、それは印象付けるための言葉であって、実際にはその人の字が物語るため、判断はおまかせしたいところ。
当然実用書を教える機会があるのなら、綺麗に書くために努力はしろよという話ですが、それはそこに誠意があるかどうかかもしれません。
僕はそれを、字に対する誠意があるかどうか、という言葉で最近言っています。
綺麗に書くためには、自分自身が綺麗に書けるようになったという実例がどうしても必要な気がしてなりません。
もちろん字を綺麗に書くことだけが書道ではありません。
字が拙い人だからこそできる表現があって、逆に自分は整い過ぎてできない表現があります。
綺麗な字を書きたい人は綺麗な字を教えてくれる先生に習えば良いし、そうじゃない、自由奔放で豪快な書を求める人はそんな先生に習えば良い。
習う側として大切なことは、自分が何を求めているのかを明確化して、教室を選ぶ際には求めるそれが確かか見極めること。
教える側として大切なことは、自分が誠実にお届けできることは何かを明確化して、想いの不一致を減らすこと。
僕自身は、息を吐くように綺麗な字を書けるようになりたいと願っています。
それが書道へのあこがれや、素晴らしさを広める、一番身近な方法だとも知っていますからね。
今はまだ意識しないと書けない程度なので、積極的に手書きをして身体に馴染ませていかねばと思っています。
CLOSE