書き初めでも競書雑誌でも、やるべきことって
書き初めでも競書雑誌でも大切なことは?
何度でも書くことですが、この時期に書家でありながら活動家として訴えておきたいことがあります。
書き初めでも競書雑誌でも、ついつい成績を求めたり、意識している人は多いと思います。
それは結果が出た時は良いものの、結果が出なかった時に辛くなるという様子を幾度となく見てきました。
そんなことは目に見えているので、我が藤井碧峰書道教室は、当初より何を目的に字を書くのかを明確化してやってきました。
色んなものが見えすぎても、どこに進めば良いか分からなくなるものです。
多くの書道を習いたいと願った人は、”綺麗な字を書きたい”だとか”何か成長できて、没頭できるものが欲しい”といった、シンプルな理由から始まっていることでしょう。
目的・目標を失った先の苦労は自分自身を疲れさせるだけなのは、多くの社会組織でも経験されることなのではないでしょうか?
書き初めでも競書雑誌でも大切なことは、成績を求める字ではなく良い字を書くことだと、藤井碧峰書道教室では定義しています。
誰よりも良い字が書けているのに結果が出ないということは、書道の世界でも何の世界でも、審査というものが存在する限りあることです。
数年前、【審美眼と古典について考える】という記事を書きましたが、審査員は完璧じゃないです。
審査ではなくタイムで競い合う世界なら、「速い奴が強くて勝つのではなく、勝った奴が速くて強い」と言えるし、卓球のような世界では「勝った奴が強い」というそれだけです。
一方で、書道は見る側の趣味嗜好も異なります。
更にくだらないことに、人間の好き嫌いも露骨に成績に反映させてくる素敵な先生方もいます。
だからその”くだらない世界”から離れるために、私は必要に応じて環境を変えて改善してきました。
一方で学校の書き初め大会等は、書の見方を知らない先生方で運営せざるを得ないこともあり、学校側の苦労も想像できますが、正しい努力をしたからといって報われないというのを何度も見てきました。
見ていると評価基準が、
・学校で支給されたお手本に忠実かどうか?
・(割と)太く、元気に書いてあるか?
というのが大きくあるようです。
それは、学校支給のお手本が良いという大前提においての話です。
そして太いだけの字に、筆づかいが上手いと認めざるを得ない理由はあるのでしょうか。
もし、それを徹底的に真似て、良い字じゃないのに最高賞が取れても、そこに価値はあるのでしょうか?
書としての価値であったり、世の中における価値をはかった時に、決して自慢できるようなものではないと思います。
実態がどうなのかが重要なのであって、上辺だけの名誉を得たことで言われる字の上手さは、その人のためにはなりません。
やはりその人の書いた字が良くないとどうしようも無い。
本当に良い字を書いて、書が分かる人でも分からない人でも、良い字だと、上手い字だと納得せざるを得ないものを書いてみせることが、良い結果へと結びつきます。
自分自身が、所属の無いような状態から作品を出品始めていることもあって、こんな精神でやってきています。
ひねくれていたらごめんなさい。
でも、これが真実だと信じて教室を始めて、それを続けてきて、沢山の大切な仲間とやってきました。
だから、自分の教える力のおかげで、今いる学生の生徒さんの活躍があると思ってもいないし、自分の中で自慢に思っている彼らの字をネットで表に出すこともしません。
彼らが懸命に書道というものに向き合って、向き合った気持ちと行動力に伴って結果が出ているというだけのことですから、彼ら自身が自分で特技だと言えるようになれれば、それが一番自分として嬉しいことなのです。
これまでも書き初め大会で良い結果を残してきてくれていますが、今後もそれはあくまでも本当に良い字を書いた先にあってほしいと、昨日の書道教室でも子供たちに伝えてきました。
良い字を書くということは、その会場の中で、圧倒的に良い字を書くということです。
つまりは、「~さんより上手かった」という、小さな世界で戦わないこと。
とにかく自分から厳しく見ても、指導者でも誰が見ても何も言うことが無いという、最高の字を字を書くことなのです。